えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

BD『オリエンタルピアノ』/ジュリアン・ドレ「崇高にして無言」

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 こんな作品にいち早く目を止めて、翻訳・紹介できたらきっと誇らしいだろうと、そんな風に思わせる作品が時々あるものだが、この

ゼイナ・アビラシェド『オリエンタルピアノ』、関口涼子訳、河出書房新社、2016年

は、私にとってまさしくそうした一冊である。予備知識ほとんど無しで読み始めたのだが、気がつくと虜になっていて、夢中で読み通した。この鮮烈な衝撃はマルジャン・サトラピの『ペルセポリス』以来のものだと言いたいが、しかしこの作品は決してサトラピの二番煎じではない、ということは強く言っておかなければならない。

 舞台はレバノン。(著者とほぼ同人物と思わしい)語り手の曽祖父にあたる、アブダッラー・カマンジャと、語り手の人生とが交互に語られるという構成になっている。アブダッラーは幼いころから音楽が好きで、父の反対を押し切ってベイルートに上京、ピアノの調教を仕事にするようになるが、ピアノによって中東音楽に特有の四半音(四分音)を出すための工学的な解決法を探しつづける。そして遂にその問題を解決し、ペダルを踏むことで四半音を出すことができるピアノを開発し、ウィーンのピアノ会社に売り込みに行く。それが1959年のことで、作品はそこから始まっている。

 一方、物語の語り手(著者自身は1981年生まれ)は、幼い頃からアラビア語とフランス語のバイリンガルとして育ち、ベイルートで勉強した後、2004年にパリに移住し、十年後にフランス国籍を取得するに至る。レバノンにいた時点では、二つの言語は編み物の縦糸と横糸のように(あるいは二種類のミカドの棒のように)分かち難く混ざり合っていたが、フランスに来た後にはそれをより分ける作業が必要となり、そうした経験の中で、自分にとっての二つの言語の意味を確認していくことになる。

 オリエンタルピアノとは言うまでもなく、西洋と東洋という二つの世界を結びつけるものの象徴である。つながりのないはずの二つの世界がつながる場所。著者は、この曽祖父の発明品の内に、二つの世界に生きてきた自分自身の姿を投影する。平均律と四半音、フランス語とアラビア語。双方と共にあり、両方を慈しみながら生きることこそが、自らのアイデンティティーであるということを語り手は学んでいく。「オリエンタルピアノであるということは、パリで窓を開けて海が見えないかなって思うこと」という作中の言葉は、しなやかであたたかく、美しい。

 オリエンタルピアノは多くの歌手にも高く評価されるのだが、結果的には生産に至ることはない。時代が進んでシンセサイザーが登場すると、それによって四半音が容易に出せるようになることで、オリエンタルピアノはもはや不要なものとなってしまうのである。その意味で言えば、カマンジャの夢は挫折に終わったとも言えるはずだが、しかしこの物語が決して暗いものにならないのは、自らの音楽を愛しつづけた人物として、著者が彼の人生を肯定しているからである。

 マルジャン・サトラピと同じように、アビラシェドの絵も、奥行きのない平面的な画面であり、白黒の二色のみで濃淡はなく、その分ベタの黒色が印象的な絵柄となっている。日本の漫画と根本的に異なっているのは、動き、そして時間の表現であろう。日本の漫画のように動線で動きを示すことはまったくないため、基本的に画面は静止しているのだが、その代わりに、コマ送りの画面構成や、一つのコマの中に同じ人物を繰り返し描く、いわゆる異時同図法によって、時間の中にある動きが巧みに表現されている。

 その延長として、音符などの特定の事物を無限に反復して描くことで独特の効果をあげている場面もあり、圧巻は折り込み頁で描かれたオリエンタルピアノを初披露する場面だろう。そこではどこまでも続くピアノの鍵盤が描かれているのだが、そのピアノが平均律の時はまっすぐに、四半音の時には「腰を軽く振るように」波打って描かれる。音楽が見事に空間的に表現されていて、とくに印象的な場面となっている。

 全体を通して、丁寧に描かれた絵柄と、白黒の色の使い方の巧みさが素晴らしく、一頁全体を一コマで描いた頁では、そのはっとさせるような構図や表現が目を引いて飽きさせない。大胆であると同時に繊細でもあり、素朴であると同時に洗練されてもいる。言うまでもなく、作品の主題である西洋と東洋の融合は、この絵の内にまさしく実現しているのである。

 蛇足ながら付け加えておけば、この作品ではレバノンの内戦についてはごく部分的にしか触れられていない。あえてそこには触れずに、ほのぼのと暖かい物語として語り通すことこそが、自らのルーツとアイデンティティーを確認し、承認するというこの作品には適っていたのだろう。決して肩肘張ることなく、微笑みを浮かべている著者の顔が見えるような、そんな優しさに満ちたこの作品、洋の東西を問わず、文学、音楽、美術のいずれかに関心のある人すべてに、自信を持って一読をお勧めしたい。

 

 最後に、Julien Doré ジュリアン・ドレをもうひと押し。『&~愛の絆』より "Sublime & silence"「崇高にして無言」。南仏のカマルグで撮影されたこのPV、大真面目に馬鹿馬鹿しくて、なんだかよく分からないけれど、どうやらそのよく分からないところが味わいらしい。

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Mais je sais que tu restes
Dans les fleurs que j'te laisse
Après la nuit
Violence & promesses
C'est tout c'que tu détestes
La mort aussi

Le vide aurait suffi
("Sublime et silence")
 
分かってるさ きみは
夜が明けても
僕が残してゆく花のなかに居続けるって
暴力と約束
これが きみの大嫌いなものすべてさ
死も嫌がってるね
 
むなしさは充分味わっただろうに
(「崇高にして無言」、大野修平訳) 

モーム「雨」/ミレーヌ・ファルメール「ブルー・ブラック」

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 考えてみるまでもなく、モーパッサン好きがモームを好きにならないはずもない、というものなのだが、これまで読む機会がなかったサマセット・モームをできるだけ読む、というのが私の今年の目標である。

 サマセット・モームは1874年に生まれ(ヴァレリーより3つ下、ジャリの1つ下)、1965年に亡くなっている。長生きだ。戦後の日本ではブームというほどによく読まれたが、その後「煉獄期間」を経て、2000年代より再び読まれるようになってきたという。なるほど。

 モーム『雨・赤毛』、中野好夫訳、新潮文庫、1959年(2012年68刷改版)

 さて、モームの短編の代表作は「雨」ということになっているので、まずはこれから読み直そう(20年ぶりくらいだろうか)。舞台のパゴパゴとはアメリカ領サモアの町だったのか(当時は何にも分かっていなかったに違いない)。そこに足止めされた医師のマクフェイルとその妻、宣教師のデイヴィドソン(と書いてある)が泊まった宿の一階に、ミス・トムソンという女性が泊まり、男を連れ込んでどんちゃん騒ぎをしはじめる。降りやまぬ雨の下、デイヴィドソンと女との戦いが始まる……。

 この作品が有名なのは、その結末の意外性によるところが大きいだろうが、しかしながら、このたびの再読の率直な感想としては、この作品はいささかあざといのではないだろうか、という印象が残った。

 恐らく、意外な結末が優れたものであるためには、その結末が読者にとって予想外であるが、しかし同時に「なるほど」と腑に落ちるものでもある、という条件を満たしていなければならないだろう。その点、この作品では、宣教師ディヴィドソンの頑固一徹な信心ぶりがこれでもかと強調されている(それ故に「落ち」の効果は大きい)のに対し、彼の「弱さ」はほとんど指摘されていないので、伏線が不十分であるように私には思われた。彼の影響下ににわかに回心した娼婦のトムソンは、身だしなみもないがしろにしてひたすら宣教師にすがりつく。

罪と一緒に彼女は一切の身の廻りの虚栄もやめた。櫛も入れない髪を乱して、汚い部屋着のまま、部屋の中を他愛もなく何かしゃべり歩いていた。四日間というもの一度も寝室衣を脱いだこともなければ、靴下を穿いたこともない。部屋は汚く取散らかっていた。

(『雨・赤毛』、新潮文庫、94頁)

  このような彼女に対して、デイヴィドソンはなぜ最後に陥落してしまうのだろうか。しかも宣教師ともあろうものが、その犯した罪のために自殺してしまうのである。その点にも、私はやはり読者を驚かせたいがための作者の作為を感じてしまうのである。

 もちろん、伏線がまったくないわけではない。トムソンの回心に入れ込むあまりに夜も眠れないほど興奮しているデイヴィドソンの姿には常軌を逸したものがあり、狂気に接近していると言ってもいいだろう。そして言うまでもなくタイトルともなっている「雨」の存在がある。先の引用に続く箇所にこうある。

その間も雨は執拗な残忍さで降りつづいていた。もう空の水も種切れだろうという気がするのだが、それでも依然として気も狂い出しそうにナマコ板を鳴らしながら、無二無三に降り注ぐのだ。なにもかもみんなべっとり湿ってしまって、壁にも、床の上に置いた長靴にも黴が生えていた。眠られない晩を、終夜蚊の群が腹立たしい唸りを立てていた。

(同前、94-95頁)

  したがって、デイヴィドソンが最後に過ちを犯すのは、単に彼の精神や信仰心に弱さがあったからというのではない。それよりもむしろ「環境」が人心にもたらす影響の強さに、作者は重きを置いているのだと考えられるだろう。そう考えるならば、デイヴィドソンもまた一人の被害者である、という風に読むことも可能かもしれない。

 もちろん、この作品には一つの信念に凝り固まった人物の見せる独善性、不寛容さに対する諷刺と批判という面が明確にある。死体安置所から帰ってくると、トムソンが元のように着飾り、レコードをかけて騒いでいる。憤慨したマクフェイルが邪魔をしてレコードをはねのけると、女は怒って向き直る。ネタばれになるけれども、末尾を原文とともに引いておきたい。不平を述べてはみたが、この結末の鮮烈さはやはり傑出したものに違いない。

  'Say, doc, you can that stuff with me. What the hell are you doin' in my room?'
   'What do you mean?' he cried. 'What d'you mean?'
   She gathered herself together. No one could describe the scorn of her expression or the contemptuous hatred she put into her answer.
   'You men! You filthy, dirty pigs! You're all the same, all of you. Pigs! Pigs!'
  Dr Macphail gasped. He understood.

(Somerset Maugham, "Rain" (1920), in Collected Short Stories, Vintage Classics, Volume 1, 2000, p. 48.)

 

 「ねえ、先生、馬鹿なことおしでないよ。他人の部屋へ入ってなにするんだい?」

「その口はなんだ? その口はなんだ?」

 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に充ちた憎悪を浮べて答えたのである。

「男、男がなんだ。豚だ! 汚らわしい豚! みんな同じ穴の貉だよ、お前さんたちは、豚! 豚!」

 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。

(同前、103頁)

  (「こたえて」は「こらえて」の誤植だろうか?)

 ここに口を開いて、暗い深淵が覗いている。それが絶望的なまでに残酷に人と人とを隔てるのである。若い頃にこれを読んでショックを受けて、モームというのは嫌な作家だと思ったのが、以来これまで彼から遠ざかっていた理由であったかもしれない。

 今の私にもそういう思いが無いわけではない。しかし今はむしろ、その深淵を直視する作家の姿勢に共感を覚えると言っていいだろう。

 モーパッサンとよく似ている? そうかもしれない。でもやはり二人の間には相違もある。どこにその相違があり、その違いが何なのかを見定めることを目標に、これからモームを読んでいきたい。

 

 蛇足ながら、日本におけるモーム移入の嚆矢という歴史的価値を認めるにやぶさかでないとはいえ、中野好夫の訳文が古びているのは否めないと思う。新訳を望みたい。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメールの昔からのファンは、Laurent Boutonnat ロラン・ブトナあってのミレーヌだと考えるわけであるが、2010年のアルバム Bleu noir 『ブルー・ブラック』は初めてブトナ抜きで作られた。ちなみに『モンキー・ミー』で彼は戻ってきたが、最新作『星間』はまたしてもブトナ抜き。二人の間は決裂したとも噂される(らしく)、だとすればそれは悲しい。

 それはともかく、タイトル曲の"Bleu noir"

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La bataille est belle

Celle de l’amour

Disperse tout

La bataille est celle

De longs, longs jours

Mon amour

("Bleu noir")

 

戦いは美しい

愛の戦いが

すべてを追い払う

戦いは

長い、長い時間のかかるもの

愛する人

(「ブルー・ブラック」)

 

 

BD『神様降臨』/ジュリアン・ドレ「湖」

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 翻訳BDの中で、ニコラ・ド・クレシーに次いで名を挙げたいのは、マルク=アントワーヌ・マチューである。彼の作品でこれまでに翻訳されたものとしては、まず、これもルーヴル美術館BDプロジェクトの一環を成している

レヴォリュ美術館の地下 ある専門家の日記より』、大西愛子訳、小池寿子監修、小学館集英社プロダクション、2011年

の衒学的にして幻惑的なルーヴル迷宮彷徨があり、次に、わずか3秒間の出来事を連続コマ送りの画面で語り切るという、刺激的な実験作

『3秒』、原正人訳、河出書房新社、2012年

そして、ここに取り上げる

『神様降臨』、古永真一訳、河出書房新社、2013年

がある。いずれも白黒の画面であり、描線はきっちりと描かれているので見やすく、とりわけ黒色が印象的な画風となっている。

 さて『神様降臨』であるが、これは文字通りに現代世界に「神」を名乗る男が出現するという物語である。この神を自称する白髪と長い髭の男は、当然最初は疑いの目で見られるのだが、現代科学の最先端の難問を解くという「奇跡」を行ってみせることで、信憑性を高めてゆく。さて、現代社会において人々が神の降臨を信じた時、いったい何が起こるのか?

 人々はこの世のすべての元凶が彼にあることに憤って、神を裁判にかける――。それが、著者の出した傑作な回答なのである。それは荒唐無稽なようでもあり、なるほどと納得させられるようでもあり、冗談と真面目との絶妙なバランスこそがこの著者の真骨頂と言えるだろう。裁判の過程では神学的・哲学的な議論が展開され、そこにはこっそりと文人・思想家の引用がちりばめられているのだが、衒学趣味と滑稽な笑劇とが分かち難く結び合って、見事に独特の世界を作り出している。人間対神の論争は、いったいいかなる結末を迎えるのか?

 とことん人を煙に巻くような仕掛けやひねりが随所に効いていて、一読後の印象はまさしく狐につままれたようなという感じであるが、その感じが尾を引いて、もう一度頭から読み返したくなるに違いない。その点は『レヴォリュ』や『3秒』にも共通すると言えるだろう。マルク=アントワーヌ・マチュー、その独特の味わいは癖になる。

 ペダンチックで皮肉に富んだ彼の不思議に魅惑的な世界を、ぜひ一度堪能してもらいたいと思う。

 

 今年の1月に、Julien Doré ジュリアン・ドレの初の日本版CD『&~愛の絆~』が発売された。

 正直に言って私はとくに興味を持っていなかったし、一聴した時には「これで売れるのはなんかずるくないか」と偏見に満ちたことを思い、さらにボーナス・トラックの日本語版「ラ・ジャヴァネーズ」のPVを最初に見た時には仰天した。

youtu.be

 しかしながら、繰り返し聴いて馴染んでくると、なかなかどうしていい感じではあるまいか(我ながら単純ではある)、ジュリアン・ドレ。たいへん情感に富んだメロディーを書ける人だと思う。「湖」"Le Lac"は、ラマルチーヌとは関係ないか。

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T'aimer sur les bords du lac
Ton cœur sur mon corps qui respire
Pourvu que les hommes nous regardent
Amoureux de l'ombre et du pire
("Le Lac")
 
湖のほとりで きみを愛すること
呼吸する僕の身体の上には きみのハート
二人のことを 眺めている人がいる限り
暗がりで 最悪の事態で愛し合う恋人たち
(「湖」、大野修平訳)

 

BD 『氷河期』/ -M- 「オセアン」

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 フランスの漫画ことBD(ベーデーであって、ブルーレイディスクではない)が日本に積極的に紹介されるようになって、もう6、7年は経っているだろうか。これは、有能で熱意のある紹介者が何人かいれば、状況を変えることができるという見事な実例であり、その営為にぜひとも敬意を表したいと以前から思っていた。

 そういうわけで、まったくの素人ではあるけれど、素晴らしい作品について思うところをあれこれ述べてみたい。どこまで続くか分からないけれど。

 とにかく、フランスのBDは日本の漫画とは根本的に別物なので、日本の漫画が好きな人こそ、BDを手に取れば新鮮な発見に驚くのではないだろうか。大判でフルカラーの作品が多いので値段は張るが、日本に紹介されるような作品は、二度三度と繰り返し眺め、じっくりと読み返すだけの価値のあるものばかりが厳選されているから、無理をしてみる価値はあると思う。

 さて、私が一番最初に挙げたいのは、なんといっても、

ニコラ・ド・クレシー『氷河期』、大西愛子訳、小池寿子監修、小学館集英社プロダクション、2010年

である。これは、「ルーブル美術館BDプロジェクト」の一冊なので知る人も多いに違いない。ニコラ・ド・クレシーの翻訳されたものでは、

『天空のビバンドム』、原正人訳、飛鳥新社、2010年

が圧倒的に凄いのは確かだけれど、いかにも癖が強すぎて最初は取っつきにくい(と思われる)のに対し、『氷河期』の淡い水彩の絵柄はとても見やすく、話は相当ぶっ飛んでいるけれど、それでも首尾一貫しているのでずっと読みやすいだろう。

 話は今から1,000年ほど未来、地球は氷河期で氷に覆われている。環境破壊で死滅しかかった人類はかろうじで生き残っているが、過去の文明の記憶をほとんど持っていない、という設定である。そんな中、人およびしゃべる犬からなる探検隊が、雪で埋もれていたルーヴル美術館を発見する。

 人間たちはそこに残された絵画作品が、失われた歴史を語っているものに違いないと考え、絵だけから人類の過去をあれこれ想像するのであるが、なにしろ宗教画、裸体画や風景画などの古典作品ばかりであるから、そこから紡ぎ出される歴史=物語は奇想天外の馬鹿馬鹿しいもので、それを大真面目に語っているところがすごく可笑しいのである。

 一方で人間たちとはぐれたしゃべる犬ハルクは、建物の別のところで、古代の神々を象った彫像や置物などに出会う。これらの神々は魂を得たのかなんなのか、とにかく動いてしゃべるので、お互いに悪口を言ったり突っ込みを入れたりの、そのやりとりがこれまたたいへん面白い。

 そしてそういう物語に次々に出てくるルーヴル所蔵の作品は、どれも実際に存在するものが、それと分かるように丁寧に描かれていて、ちゃんと巻末には解説も付けられているので、眺めているとルーヴルについてもしっかり詳しくなれる(かもしれない)のである。

 そして最後に、この物語の破天荒な展開の見事さよ。実に馬鹿馬鹿しい結末ではあるけれども、その無茶苦茶さがいかにも清々しい。これほどオリジナリティーの高い物語をさらりと語ってしまえるニコラ・ド・クレシーという人は、まさしく天才の呼び名に値すると言うべきだろう。

 いや本当に、褒めるとこだらけのこれは見事な傑作であると、大きく太鼓判を押したいのである。ニコラ・ド・クレシー、知らないのは勿体ない。

 

 話は変わって、本日は -M- こと Matthieu Chédid マチュー・シェディッドを聴こう。見た目むさ苦しいおっさんであるが、歌わせたら実にうまいし、クールで、(たぶん)セクシーなので、いかにもフランス人男性に受けがいいに違いない、と思ってしまうのはただの偏見だろうか。

 2012年のアルバム Îl (って何だろう、il と île をかけてるのか)から、とくに好きな "Océan"「オセアン」。

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C’est en toi

C’est en moi

Oh c’est en nous

 

C’est en toi

C’est en moi

Océan

 ("Océan")

 

君の中に

僕の中に

おお僕たちの中に

 

君の中に

僕の中に

オセアン(海)

(「オセアン」)

  oh c'est en と océan は同音である、という「だけ」と言ってしまえば「だけ」の歌詞であるが、しかし見事に恰好いいですね。

ナボコフ、フロベールと5、6冊の本/クロ・ペルガグ「カラスたち」

『ナボコフの文学講義』上巻表紙

 「どうしたら良き読者になれるか」、というのは「作家にたいする親切さ」といっても同じだが――なにかそういったことが、これからいろいろな作家のことをいろいろと議論する講義の副題にふさわしいものだと思う。なぜなら、いくつかのヨーロッパの傑作小説を親切に、思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に、詳細に扱うのが、わたしの計画だからだ。いまから百年前、フロベールは彼の愛人への手紙のなかで、こんなふうのことを語っている。'Comme l'on serait savant si l'on connaissait bien seulement cinq à six livres' ――「わずか五冊か六冊かそこらの本をよく知っているだけで、ひとはどんな学者にもなれるものです。」

 本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。本の陽の当る細部が思いやり深く収集されたあとならば、月の光のような空想的な一般論をやっても、なにも不都合はない。だが、既成の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまるより先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる。

ウラジミール・ナボコフ「良き読者と良き作家」、『ナボコフの文学講義』、野島秀勝訳、河出文庫、上巻、2013年、53頁)

  「親切に、思いやり深く、けっして急ぐことなく丁寧に」本を読むこと。なるほど、ナボコフはとても大事なことを言っている。

 それはそうと、当然の如く、フロベールの引用が気になって本を繰る手が(早々に)止まる。とはいえ、検索をかければ瞬時に原典に辿り着けるのだから、いや本当に今の世の中は、20年前には夢だった楽園そのものかとさえ思える。

 Tantôt j'ai fait un peu de grec et de latin, mais pas raide. Je vais reprendre, pour mes lectures du soir, les Morales de Plutarque. C'est une mine d'érudition et de pensées intarissable. Comme l'on serait savant, si l'on connaissait bien seulement cinq à six livres !

(Lettre de Flaubert à Louise Colet, jeudi, minuit [17 février 1853], dans Correspondance, Gallimard, coll. "Bibliothèque de la Pléiade", t. II, 1980, p. 247.)

 

 時には僕は少しばかりギリシャ語やラテン語をやりますが、猛烈にではありません。夜の読書には、プルタルコスの『モラリア』をもう一度手に取るつもりです。それは学識と思想との尽きることのない鉱脈です。ほんの五冊か六冊の書物をよく知っていれば、人はどれほど博識になれることでしょう!

(ルイーズ・コレ宛フロベール書簡、1853年2月17日)

http://flaubert.univ-rouen.fr/correspondance/conard/lettres/53b.html

  5冊か6冊の本を「よく知る」こと。いや本当にその通りだと思うのだけれど、しかしこの「よく」の一語が難しい。

 なにはともあれ、「親切に、思いやり深く」本を読む、というのは本当にいい言葉だと思う。

 

 ケベック出身の女性歌手 Klô Pelgag クロ・ペルガグは、2013年に最初のアルバム L'Alchimie des monstres『怪物たちの錬金術』を発表。批評家から高い評価を得た。たいへん才能豊かな人に違いないが、いやまあしかしなんて変てこりんなんでしょう。とりあえず「カラスたち」を挙げてみる。

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La lune est pleine ! La lune est pleine !
La lune est pleine ! La lune est pleine,
Elle est remplie de corbeaux
Et l'archipel ! Et l'archipel !
Et l'archipel, découpé par mes ciseaux

("Les Corbeaux")

 

月は満ちた! 月は満ちた!

月は満ちた! 月は満ちて、

カラスたちで一杯だ

そして列島! そして列島!

そして列島 私のハサミで切り取られて

(「カラスたち」)

  これはあるいは「夢」の光景でもあるのだろうか。

『フランス文学は役に立つ!』/ZAZ「シャンゼリゼ」

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 鹿島茂フランス文学は役に立つ!』、NHK出版、2016年を読む。

 「役に立つか立たないか」という功利主義的な発想は、えてして短絡的で底が浅いものである。したがって、「役に立つか」というような問いを安直に立てないような人になるためにこそ、文学は有用であって「役に立つ」のである、云々……。

 と、多くの場合に文学愛好家はもごもご歯切れ悪く呟いたりするものなのだが、そんな逡巡なにするものぞ、ずばり「フランス文学は役に立つ!」と言い切ってしまうところが、鹿島先生の面目躍如なところである。

 では、何故にフランス文学は役に立つと言えるのか。

 フランスは大革命の人権宣言に明らかなように、個こそが最も貴い価値であり、社会の目指すべき方向は個の解放にあると定めた最初の国だからです。ようするに、1人の人間が自分の人生を自分の好きなように使って「やりたいことをやる」と思ったとき(これを、普通、「自我の目覚め」と呼びます)、たとえ家族や社会のルールとぶつかろうと、基本的にはそれを貫くのは「良い」ことだと見なした最初の国がフランスであり、フランス文学はその見事な反映だということです。

(「まえがき」、『フランス文学は役に立つ!』、5頁)

  そこで、振り返って現代の日本社会を眺めると、フランス文学の扱っているテーマが、今の日本社会の直面する問題であることに気づかされる。

 なぜでしょう?

 それは「個」の解放の先進国であるフランスが大革命後、あるいは第一次大戦後に直面した問題が、第二次大戦後にアメリカから外圧を受けて遅ればせながら「個」の解放を始めた日本社会に、200年あるいは100年のタイムラグを伴って出現し、ようやくアクチュアルな課題となりつつあるからです。

(同前、6頁)

  なるほど、そう言われればそうかもしれない(という気になってくる)。文学作品を人生の教科書にするということは、別に古臭いことでもなんでもない。そういう読書こそが切実な体験となることも、とりわけ若い頃にはあるはずだ。よし、そのフランス文学とやらを読んでみよう(と思う読者のたくさんいることを祈りたい)。

 では、いったいどんな小説が取り上げられているのか、目次を眺めてみよう。

17世紀~18世紀文学

 1 ラファイエット夫人『クレ―ヴの奥方』

 2 アベ・プレヴォー『マノン・レスコー

 3 ヴォルテールカンディード あるいは最善説』

 4 コンスタン『アドルフ』

19世紀文学

 5 スタンダール『赤と黒』

 6 バルザック『ペール・ゴリオ(ゴリオ爺さん)』

 7 メリメ『カルメン

 8 ネルヴァル『シルヴィー』

 9 フロベール『ボヴァリー夫人』

 10 ユゴーレ・ミゼラブル

世紀末文学

 11 ヴァレス『子ども』

 12 ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

 13 ユイスマンス『さかしま』

 14 モーパッサン『ベラミ』

 15 ルナール『にんじん』

20世紀文学I

 16 プルースト失われた時を求めて

 17 コレット『シェリ』

 18 コクトー『恐るべき子どもたち』

20世紀文学II

 19 サルトル『嘔吐』

 20 カミュ『異邦人』

 21 サン=テグジュペリ『プティ・プランス(星の王子さま)』

 22 エーメ『壁抜け男』

 23 ヴィアン『日々の泡』

 24 ロブ=グリエ『消しゴム』

 以上の全24作品である。

 この中には、「最高の「恋愛分析」の報告書」(『クレーヴの奥方』)あり、「恋愛においてやってはいけない6か条」の指南(『アドルフ』)あり、「ゲームとしての恋愛」(『赤と黒』)あり、「かなうことのない自己実現」の夢(『ボヴァリー夫人』)あり、「同志婚」(『ボヌール・デ・ダム百貨店』)あり、「新しい女性たちの出現」(『ベラミ』)あり、はたまた「アラ・フィフ女性がいかに年下男と付き合うべきか」の答(『シェリ』)がある。

 一方で、鹿島茂の手にかかると、ネルヴァルも、ユイスマンスも、プルーストも、サルトルも、みんなそろって「元祖オタク」と断定されてしまうのだが、資本主義とヴァーチャル・リアリティーの世界に生きる現代人の宿命とでもいえようか。

 これらの作品の内に、現代日本社会を生き抜くための答がすぐに見つかるかどうかは分からない。それでも、少なくとも対象を相対化してくれる視点を手に入れることはできるだろう。

 ところで、ここに挙げられている作品のほとんどには、今も簡単に入手できる翻訳が2種類以上存在しているという事実は、改めて見直せばやはり凄いことに違いない。面白いこと保証済みの傑作のオンパレード、なにはともあれ読まれてほしい作品ばかり。

 ぜひ、鹿島先生の講座に入門されてみてはいかがだろうか。

 

 Zaz は正直なところ、もうひとつピンとこないのだけれども、それでも2014年のアルバム Paris 。ベタな「シャンゼリゼ」も、とっても洒落ている。

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Aux Champs-Elysées, aux Champs-Elysées

Au soleil, sous la pluie, à midi ou à minuit

Il y a tout ce que vous voulez

Aux Champs-Elysées

("Champs-Elysée")

 

シャンゼリゼには シャンゼリゼには

晴れでも雨でも、正午でも深夜でも

欲しいものは全部あるんだ

シャンゼリゼには

(「シャンゼリゼ」)

 

 

愛国主義という卵/ミレーヌ・ファルメール「City of Love」

 目下、モーパッサンと戦争について考え直す、という論文を執筆中。そこでふと思い出したのが、モーパッサンの名言として巷に流布しているらしい言葉である。

 「愛国主義という卵から戦争が孵化する」というのがそれなのだが、これまできちんと調べたことがなかった。そこで検索をかけてみると、出典は「ソステーヌおじ」だと教えられる。なるほど。では原文を読んでみよう。「自由思想家」を自任する語り手は一切の教義を認めないという、その文脈の中で出てくる。

  Mon oncle et moi nous différions sur presque tous les points. Il était patriote, moi je ne le suis pas, parce que, le patriotisme, c'est encore une religion. C'est l'œuf des guerres.

("Mon oncle Sosthène", dans Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, Gallimard, coll. "Bibliothèque de la Pléiade", 1974, t. I, p. 503.)

 

 おじと僕とはほとんどあらゆる点で違っていた。彼は愛国者だったが、ぼくはそうではない。それというのも、愛国心というものもまた一つの宗教だからだ。それは戦争の卵である。

(「ソステーヌおじ」)

 ちなみに、これまでに「ソステーヌおじ」を訳したことがあるのは桜井成夫だけかもしれないのだが、その訳文は次のようなものとなっている。

 おじとぼくとでは、ほとんどあらゆる点でちがっている。おじは愛国者だったが、ぼくはそうじゃない。それってのが、愛国心もまた、宗教だからね。ありゃ、戦争をひき起こすもとだよ。

(「ソステーヌおじ」、桜井成夫訳、『モーパッサン全集』、春陽堂、第2巻、1965年、329頁)

  桜井はそもそも「卵」の語さえ使ってはいないのである。ということは、件の「戦争が孵化する」の一文は、恐らくは英語からの流入で、どこかの時点で編集の手が加えられたものではないか、と推測される。しかし「孵化する」のイメージこそが肝であるとすれば、この「名句」はむしろその「編集者」のものであると言うべきかもしれない。

 「ソステーヌおじ」(1882年8月12日『ジル・ブラース』)は、自由思想家でフリーメーソン会員のおじさんに、イエズス会の坊さんをけしかけるという悪ふざけをして喜んでいたら、おじが本気で回心してしまい、ふしだらな甥は遺産の相続権を取り上げられてしまう、という落ちのつく笑い話である。フリーメーソンイエズス会のどちらもが縁遠いのが、日本ではあまり翻訳されてこなかった理由かもしれないが、これは健康な時のモーパッサンの上出来な作品の一つであろうし、モーパッサンもまた強固な反教権主義の時代であった第三共和政の申し子の一人である、ということが窺える一編でもある。

 それはそうと件の一文であるが、作中の語り手の言葉であるから、これをモーパッサンその人の考えと即断してしまうのははばかられる。ただプレイヤッド版の注釈で、フォレスチエ先生も、同様の思想は戦争小説や時評文の中に見いだされる、とわざわざ述べている。この年の5月、作家ポール・デルレードをはじめとした幾人かがLigue des Patriotes「愛国者同盟」を結成、対独報復を声高に主張していた時のことである、ということも覚えておいてよいだろう。

 なんにせよ、あらゆるドグマは人を拘束する、というのがモーパッサンの信条であり(それもまたドグマかもしれないが)、彼は常に精神の自由を優先させようとした。そして、自由でありつづけるというのはまことに難しいことに違いない。

 

 本日はミレーヌ・ファルメールの2015年のアルバム Interstellaires 『星間』である。嬉しがって限定版のCDを注文したら、大きな写真集(にCDがくっついてる)が届き、さすがに自分は何をしているのだろうと恥ずかしくなった、と、そんなことをこんなところで告白していいのか。

 "City of Love" のクリップの主人公はもちろんミレーヌその人。特殊メイクには6時間半かかったという。

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Les mots au bout des lèvres

Un chemin vers la vie

Si je m’abandonne

Je bâtirai

The city of love...

Oh Oh

Si je sais que je l’ai

Et le monde et l’envie

Si là je t’attends

Je bâtirai

The city of love

The city of love

("City of Love")

 

唇から洩れる言葉

人生への道

もし私が身をゆだねるなら

私は築く

The City of love

Oh Oh

もし私がそれを手にすると分かれば

世界と欲望

もしここであなたを待つなら

私は築く

The City of love

The City of love

("City of Love")

  je l'ai の l' は何を指しているのだろう。City of love だろうか。まあそれはともかく、たいへん音の美しい歌詞だと思う。