えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

BD『星の王子さま』/パトリシア・カース「アデル」

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 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ原作、ジョアン・スファール作『星の王子さま』、池澤夏樹訳、サンクチュアリ出版、2011年(2015年第2刷)

 今さら言うまでもなく、『星の王子さま』の原作には著者サン=テグジュペリ自身の手になる挿絵が添えられており、それが作品のイメージを決定すると同時に魅力的なものにしているのである。であるから、その『星の王子さま』を改めて漫画化しようというのは、いかにも無謀な試みに思えるに違いない。しかし結果から見るならば、この試みは十分に成功していると言えるだろう。

 ジョアン・スファールはフランスではすでに著名なBD作家であり、作品の数も多い。その個性的な絵柄は、サン=テックスの静的な絵柄とは反対にたいへんに動的なもので、まったく対照的である。その対比の生み出す予想外の新鮮さが、まず注目に値しよう。

 このスファール版の『星の王子さま』が成功しているとすれば、その理由の第一は、このダイナミックな絵によって表わされる王子さまのキャラクターの内にある。「今までで一番、元気で子どもらしい」と帯にあるが、実際、この王子さまは子どもらしく辺りを駆けまわり、(サンテックスによく似た)語り手の操縦士に甘え、笑い、そしてとりわけよく泣く。王子さまが真面目な人柄であり、大人びた性格の持ち主であることは原作と変わらないが、こちらの王子さまは感情の起伏が明確で、喜怒哀楽をはっきりと表にあらわす。とりわけ物語の末尾のあたり、王子さまは別れの悲しみ、そして死に対する恐怖を強く抱く。原作の主人公が恐らくは内面に抑えていただろう感情を、作品は読者により直接的、より明示的にはげしく伝えてくるのである。

 そしてもう一つのポイントは、語り手の操縦士の存在である。原作では挿絵にも姿を現さない「ぼく」だが、ここではサン=テックスと思しき中年男性として描かれている。はっきり言えば頭の禿げあがった冴えないおじさんなのであるが、しかしこの中年男が王子さまと一緒に笑い、そして涙を流す姿を見ている内に、我々は、彼がまさしく「子ども」の心を保持しつづけた「大人」であることを理解するに到る。その時、彼が冴えないおじさんの姿であるからこそ一層に、我々は彼の姿に感動を誘われるのである。恐らくそこでは、原作の語りを通しては見えにくかったものが可視化されている。

 この二人の人物によって語り直された『星の王子さま』は、したがって原作よりはるかにエモーショナルなものとなっており、感情を素直にさらけ出す二人の「子ども」の姿が、読者の内に、原作とは違った形で、恐らくはよりストレートな感動を掻き立てるだろう。その意味で、これは「訳者あとがき」に言われるように原作の一個の「解釈」であり、「ある意味では深読み」なのであるが、そもそもそうでなければ漫画化をする意味などありはしないだろうし、この「解釈」には十分な説得力が備わっている。

 この作品を読み終えた後で、我々は原作の描く王子さまの性格や、その物語について改めて思いを馳せることになる。著者自身の挿絵が作品の理解に大きな影響をもっていたことにも気づかされるに違いない。ジョアン・スファールという強烈な個性による「解釈」を経験した後で、もう一度、自分自身の目で王子さまの姿を確かめたくなるだろう。

 いかに優れているとはいえ、スファール版はサン=テックスの原作が存在する上でのものであり、それを抜きに独立しているとは言い難い。それは事実である。しかし読者をもう一度原作へと誘う強い力を持っているならば、それは原作へのオマージュとして最高のものであると言えるだろう。原作に愛着を抱く人にはなかなか受け入れがたいかもしれないし、強要する気もさらさらないけれど、スファール版『星の王子さま』、一読の価値は十分にあると思う。その読書体験はなかなか他に例のない、不思議なものであるはずだ。

 

 パトリシア・カースってまだやっていたの、とか言ってはいけない(私のことだが)。2016年、10枚目のアルバムはずばり Patricia Kaas 『パトリシア・カース』。その一曲めの "Adèle" 「アデル」は、若い女性への応援歌。

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Ce sera deux fois plus dur que les autres
Mais deux fois plus forte tu l'es, t'inquiète pas
De soutien tu n'auras que le nôtre
Mais ça suffira, ça suffira
("Adèle")
 
他の者たちの倍もきびしいでしょう
でもあなたはその分だけ強いのだから 心配しないで
支えになるのは 私たちしかいないけれど
でも それで十分なの 十分なのよ
(「アデル」)

BD『エロイーズ』/ザジ「エートルとアヴォワール」

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 ペネロープ・バジュー&ブレ『エロイーズ 本当のワタシを探して』、関澄かおる訳、DU BOOKS、2015年

 はじめブログで評判になったこの著者の翻訳としては、先にアラサー女性の冴えない日常を自虐的に1話1頁で綴った、

 『ジョゼフィーヌ!』、関澄かおる訳、DU BOOKS、2014年

があるが、『エロイーズ』は長編作品である。「女性のためのフレンチコミック」という売り文句ではあるが、ここに一言述べてみたいと思う。

 冒頭、パリの街中のベンチで我に帰ったエロイーズは、それまでの記憶を一切失っていることに気がつく。カバンの中の所持品を手掛かりにアパルトマンまで帰り着いた後、彼女は自分が誰なのかを探しはじめる……。という設定自体はさほど突飛ではないけれども、手がかりを一つ一つ見つけてゆく謎解きの要素と、記憶喪失のままになんとか日々を切り抜けていく冒険的な要素とがあいまっている上に、最後までなかなか展開が読めないので、ページを繰る手が止まらないはずだ。もっとも、興ざめにならないように、話の筋についてはこれ以上触れないでおこう。

 もともと日常生活のあれこれを漫画につづるところから出発した著者だけに、本作の見どころは細部にあると言えるだろう。お馴染みのアパルトマンの壁や屋根はもとより、ベンチやゴミ箱や街路樹や広告塔、ガードレールやバスや車や地下鉄の駅などなど、何気ない街並みの光景がしっかりとパリらしく描かれている。夜の町に薬局の緑の十字が光っていたり、何気なくヴェリブの駐輪場があったり、ヴァンドームの円柱らしきものが見えていたりするといった幾つものディテールが、パリの町を訪れたことのある者にはしみじみと訴えてくることだろう。室内の情景も同様に、家具の形や配置などに現実感がしっかりと備わっているし、頻繁に変わるエロイーズの衣装も見どころの一つに違いない。確かな観察眼があり、細部への目配りが行き届いており、淡い色彩の配色が実にセンス良くまとめられている。一方で、この現実生活に密着したリアリズムには、随所に挟まれるエロイーズの空想がバランスよく対比されることで、物語の軽みをうまく保っているのでもある。

 話を内容に戻せば、記憶喪失によって、エロイーズは自分という一人の人間、そして「彼女」のこれまでの人生を、客観的に眺め直す機会を得ることになる。それは、書店に勤める、彼氏もいない独身女性の、地味で平凡(に見える)暮らしを、一つ一つ確認し直していく作業である。だとすれば、ここでは、日常生活を構成する一つ一つの要素を疎かにしない作者の堅実な手法が、(それによって描かれる)日々の暮らしを見つめ直すという主題と、しっかりと結び合ってこの作品を作り上げているのだと言えるだろう。たとえミニマルな世界であっても、その細部を大切にすることには確かに意味があるということを、この作品は暗に語っているように見える。

 『エロイーズ』、決してただ可愛いだけの漫画ではないと私は思うのだけれど、しかしまあそういうのは余計なお世話であるのかもしれない。

 

 昨日に引き続いてZazie ザジのアルバム Za7ie より、"Être et avoir"「エートルとアヴォワール」。英語で言えば be と have。「存在」を決定するのは「所有」ではない、というわりとストレートな主題。

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Car tout ce qu'on est

Pas tout ce qu'on a

Tout ce qu'on n'est

Pas tout ce qu'on a

("Être et avoir")

 

だってその人のすべては

その人の持つもののすべてではない

その人ではないもののすべては

その人の持つもののすべてではない

(「エートルとアヴォワール」)

  うーん。この解けそうで解けない方程式みたいな4行。なんかすっきりしないんだけど、どうなってるんでしょうか。

BD『ポリーナ』/ザジ「愛の前に」

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 一言で言えば、とっても絵が上手。

 バスティアン・ヴィヴェス『ポリーナ』、原正人訳、小学館集英社プロダクション、2014年

 1984年生まれのこの作者には先に出世作

 『塩素の味』、原正人訳、小学館集英社プロダクション、2013年

の翻訳があり、カラーの画面の中に、プールの水とその中を動く人体が見事に表現されていて、その画力はすでに証明済みだった。『ポリーナ』の方は全編白黒、200頁をかけて一人のバレエダンサーの成長を辿る力作である。

 ロシア人のポリーナは幼少時からアカデミーに通い、そこで厳しい指導で有名な教師のボジンスキーの目に留まる。卒業後は選ばれて劇場の付属学校に進学するが、そこでは、ボジンスキーとは流儀の異なる女性教師のリトゥスキーの指導に馴染むことができない。一方でそのボジンスキーからは、彼の自作のソロを踊らないかと提案されて稽古が始まる。そうこうしている中、恋人や友人たちと旅行でダンスのフェスティバルを観に行くのだが、そこでコンテンポラリー・ダンスの振付師ミハイル・ラプターからオーデションを受けないかと誘われる。そしてそこから、それまでは思ってもみなかった新しい道が開けてゆくことになる……。紆余曲折を経た後に思わぬ形で成功を収め、はじめて故郷に帰るまでのポリーナの半生が丁寧に語られている。

 絵は墨絵のようなタッチで描かれ、しばしば背景を省略して人物だけが描かれるが、とにかくデッサン力がしっかりしていて、人物の姿勢や表情が的確に捉えられているところが素晴らしい。一コマ一コマに安定感があり、視線を惹きつける魅力があるのだ。もちろんそのことは、肝心要のバレエの動作やポーズについても言える。繊細で、躍動感があり、美しい場面が展開してゆく。『ポリーナ』は、『塩素の味』にも増して、芸術性の高い作品である。

 画面の切り取り方や、人物の内面に入り込まずに淡々と物語る姿勢は、とても映画的だと言ってよいだろう。このまますぐに映画化もできそうだ、と思ったのだが、実際にもう映画化されたらしく、Polina, danser sa vie 『ポリーナ、自分の人生を踊る』という題で2016年に公開されている。作者自身が学校でアニメーションを学んだ経験があるそうなので、そのことも大きく影響しているだろう。

 奇をてらうことないままに、堂々と200頁を堅実に描き切るところに、一層この作家の才能の確かさが見て取れるようだ。ぜひ他の作品も読んでみたいと思っている。

 

追記(2017.10.04)

 映画『ポリーナ、私を踊る』は、2017年10月28日よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国でロードショーとのこと。

polina-movie.jp 

 Zazie ザジの2010年の7枚目のアルバムは Za7ie (読めない)。本来は7曲入りのEPを7週間かけて毎週出すという大がかりな作品だった(私はダイジェストの14曲入りのCDしか聴いていない)。その中の一曲、"Avant l'amour" 「愛の前に」。ダンスのように美しいPV。

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Combien de jours avant l'amour

Combien de fois dans une vie

C'est con

C'est qu'on fait tout pour

Se détourner de lui

Combien de jours avant l'amour

Combien de jours on se donne

Sans faire de mal à personne

C'est quand l'amour ?

("Avant l'amour")

 

愛の前に どれだけの日がいるの

一度の人生に 何度あるの

馬鹿げてる

愛から遠ざかるために

あらゆることをするなんて

愛の前に どれだけの日がいるの

誰も傷つけることなしに

どれだけの日を与えあうの

愛はいつなの?

(「愛の前に」)

抹消された α と β /イズィア「波」

 2月11日(土、祝)は関西マラルメ研究会@京都大学文学部仏文研究室。4名。

 「部屋からの外出」に関する草稿の内のアルファ稿、およびベータ稿の途中まで。プレイヤッド版では851-853ページ。

 閉まるドア、振り子の音、廊下、磨かれた壁に映る影、螺旋階段、心臓の脈動、鳥の羽ばたき、大文字の「夜」、といった要素を繰り返し用いながら、恐らくは真夜中、時計の音=鼓動の消滅と同時に純粋自己意識(みたいな何か)が確立せんとするその時に、ふたたび心臓=扉の物音が聞こえ……、という場面の変奏らしきもの。ただしこのアルファ稿、ベータ稿は作者の手によって大きく✕が記されており、ボニオ版には収録されなかった完全な下書きであり、とりわけ修正の多いアルファ稿は不明の箇所が多い。ベータ稿では一転して「夜」の意識内容が述べられ、構文的には平易さが増しているが、それはそれとしてやはり根本的によく分からないテクストである。いやはや。

 次回の読書会は4月15日(土)の予定なり。

 

 ジャック・イジュランの娘、Izïa Higelin イズィア・イジュランはずっと英語で歌っていたが、2015年のアルバム La Vague『波』ではフランス語で歌っている。そのタイトル曲の「波」。

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Je suis la vague qui te ramène

Sur les récifs quand tu te perds

Je suis le soleil qui te brûle

Quand tu reviens nu sur les dunes

Je suis la vague

Qui te ramène

Et le soleil

Tu te rappelles

("La Vague")

 

私は波 あなたを連れ戻す

暗礁の上で あなたが迷う時

私は太陽 あなたに照りつける

あなたが裸で 砂浜に戻る時

私は波

あなたを連れ戻す

そして太陽

あなたは思い出す

(「波」)

BD『かわいい闇』/ストロマエ「パパウテ」

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 この作品を好きだと言う自信も、そのつもりもまったく無いのだけれど、一読、その気色悪い感触が尾を引くことは確かな、どうにも無視できない作品である。

 マリー・ポムピュイ、ファビアン・ヴェルマン作、ケラスコエット画『かわいい闇』、原正人訳、河出書房新社、2014年

 春の森の中で、一人の少女が死ぬ(理由は分からない)。そして、彼女の体内に住んでいた小人たちが慌てて外の世界に出てくるところから物語が始まってゆく。

 この小人たちは皆子どもの姿をしている。彼らは、自分たちだけで自然の中を生き抜いていくために、食べ物を探したり寝場所を作ったりするのだが、子どもなので遊ぶことも欠かさない。その姿は一見無邪気に見えるのだが、この子どもたちには善悪の観念が完全に欠落しているという点が、この物語の「怖さ」を生み出す核だと言えるだろう。彼らは罪悪感を抱くことなく、嘘をつき、欺き、裏切り、時には仲間をいじめ、殺す。葬式ごっこをしてみても、別に本当に悲しんでいるわけではない。

 その一方で自然は容赦なく、春から夏、秋から冬へと季節が巡っていく中で、動物に襲われて、一人また一人と子どもたちの姿が消えてゆく。そうしてそんな彼らのそばにはいつも少女の死体があり、肉が腐って大量のハエが発生し、やがて白骨となって落ち葉に埋もれてゆくのである。

 一年後、森の中の小屋で一人暮らす人間の男のもとに、主人公の少女ひとりが残される。彼女にとっては巨人である男にほのかな思いを寄せるところで物語は幕を閉じるのだが、読者の私は、全編を通して実に居心地の悪い不安感を抱きっぱなしのまま巻を閉じた次第である。この背筋がぞわぞわするような落ち着かない感じは一体何だろうか。

 思えば、子どもというのは(大人からすると)時に奇怪な存在である。昆虫や爬虫類を捕まえて遊んでみたり、さらには手足をもいで殺しても平気だったりするのは、誰もが知るところだ。大人になってしまうと我が事であってももはや理解できなくなるのだが、いや本当にあれは何なのだろう。とにかく、この作品に描かれているのは、子どもの持つそういう面である。純心さや無邪気さとは、言い換えれば善悪や美醜の観念がまだ不在であるということだ。子どもは邪気もなくたわむれているに過ぎないのだが、それが大人の目には奇怪にもグロテスクにも映るのである。「かわいい闇」というオクシモロン的な表現は、そうした「子ども」を指す表現として実に言い得て妙である。その意味で、この作品は思春期に至る前の「子ども」を実によく捉え、描いてみせていると言えるだろう。

 巻末には翻訳者による製作者へのインタヴューが載っていて、その中で、この作品に対する読者の反応は真っ二つに割れたと述べられている。

おそらく子供時代に愛着を持っている人たちには強く訴えかける作品なんでしょうね。逆にイヤな思い出がある人には悪夢のように働くのかもしれません。(98頁)

 してみると私は後者ということかもしれない。さあ、あなたはどちらになるか、一度お試しになってはいかがだろうか。

 いやはや、思い返すだにぞくぞくするようだ。

 

 気分を変えるべく歌を聴く。

 ベルギー出身の Stromaé ストロマエ(はマエストロの逆さ言葉)。2013年のセカンド・アルバム√ が大ヒットし、ストロマエは一躍世界的なスターになった。その後、結婚して現在は休養中の由。今日はストレートに "Papaoutai"「パパウテ」を。ストロマエは1985年生まれ、1994年に(大虐殺があった際に)ルワンダ人の父を亡くしている。"Papaoutai" は "Papa où t'es ?" であり、「パパ、どこにいるの?」のくだけた口語表現(だけど、"Où t'es ?" って普通に言うのかな)。

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Où est ton papa ?

Dis-moi où est ton papa ?

Sans même devoir lui parler

Il sait ce qui ne va pas

Ah sacré papa

Dis-moi où es-tu caché ?

Ça doit faire au moins mille fois que j’ai

Compté mes doigts

 

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es papa où t’es ?

Où t’es où t’es où papa, où t’es ?

("Papaoutai")

 

君のパパはどこ?

言ってよ 君のパパはどこ?

パパに話さなくても

パパは何が問題か知っているよ

ああ、困ったパパ

どこに隠れたの?

少なくとももう千回も 僕は

指折り数えたよ

 

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこにいるの パパ どこにいるの?

どこ どこにいるの パパ どこにいるの?

(「パパウテ」)

モーム「赤毛」/イェール「子どものように」

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 「雨」の次は「赤毛」である。これまた嫌な話ではあるのだが、しかし完成度という点では、私は「雨」よりもこちらを取りたいと思う。

 舞台はサモアの小さな島。まず、語りの順序とは無関係に話の要点を簡略に記せば、おおよそ次のようになるだろう。

 アメリカ海軍から逃亡した「レッド」と呼ばれる二十歳の水兵がこの島にやって来て、そこで土地の十六歳の美しい娘と出会い、二人は恋に落ちる。二人は一緒になり、楽園のように美しい島で無上の幸福の時を過ごすが、二年後、出来心を起こした青年は、だまされてイギリスの捕鯨船に連れ去らてしまう。残された女は涙に明け暮れ、四カ月後に子どもを死産する。男の音沙汰はない。

 三年が経った頃、スウェーデン人のニールソン、二十五歳の青年が、病気の療養のために島にやって来て、その美しい娘に見惚れる。周囲も彼との結婚を勧めるが、レッドのことが忘れられない彼女は拒絶する。しかしやがて観念し、ニールソンと結婚するに至る。二―ルソンははじめ、自分の愛情によって娘を幸福にすることができると信じるが、やがてそれが無理なことを理解する。彼女から愛されることのないことを悟った彼は、やがて胸の内で彼女を憎むようになる。そして二十五年の月日が流れた。

 ある日、二―ルソンのところに一人の船長がやって来る。禿げ上がった赤毛の頭、酒ぶくれでぶよぶよに太った醜い男は、何故か知らずニールソンに不快感を催させる。その船長を相手に自分の過去を語り終えたニールソンは、ふと戦慄を覚え、船長に名を尋ねる……。

 失った最愛の男を思いつづける女と、愛する女に愛されることのないままに年を取った男。二人の人間の間に見られるこの絶対的な「相互不理解」は、おそらくモームの文学にとって主要なテーマの一つと言えるだろう。だが、本作の肝はなんといっても、老いぼれた船長こそがレッドその人だったと発覚する場面にある。それが劇的なドラマにはならず、反対に一切ドラマが生起しないままに終わるという点こそが、人生の残酷さを一層に鋭く照らし出すのである。英語の練習を兼ねて原文を引用したい。

  Neilson gave a gasp, for at that moment a woman came in. She was a native, a woman of somewhat commanding presence, stout without being corpulent, dark, for the natives grow darker with age, with very grey hair. She wore a black Mother Hubbard, and its thinness showed her heavy breasts. The moment had come.

  She made an observation to Neilson about some household matter and he answered. He wondered if his voice sounded as unnatural to her as it did to himself. She gave the man who was sitting in the chair by the window an indifferent glance, and went out of the room. The moment had come and gone.

(W. Somerset Maugham, "Red" (1921), in Collected Short Stories, Volume 4, Vintage Books, 2000, p. 509.)

 

  二―ルソンは思わず息を呑んだ。というのはちょうどその時一人の女が入って来たからだ。土地の女だった。どこか犯し難いような、肥満とはいえないが、がっしりした、色の黒い、――土地のものは老衰とともに色が黒くなるのだ――真白な髪の毛をした女だった。黒のマザー・ハバードを着ているのだが、薄い生地を透して、重たげな二つの乳房が見えていた。その時が来たのだ。

 女は家事上のことらしい、二―ルソンに何か言った。彼は答えた。われながら落着かない声の調子が彼女にも気取られはしないかと彼は思った。だが女は、窓際の椅子に座っている男に興味も無さそうに一瞥を与えたきりで、部屋を出て行った。その時は来て、そのまま去ってしまったのだ。

モーム「赤毛」、『雨・赤毛』中野好夫訳、新潮文庫、2012年68刷改版、149-150頁)

  卑しい姿で登場したレッドの存在によって、痛ましくも惨めな悲劇であったはずのものが、一瞬にしてグロテスクな喜劇に変わり果ててしまう。ここに、作者が人生に投げかける、皮肉とも冷酷とも呼びうる視線が冴え冴えと際立っている。

 その上、この作品の含み持つ残酷さはそこに留まるものではない(かもしれない)。結末まで読み終えた読者は、振り返ってみた時に、青年と娘の間の「ただもう生一本な、純粋の愛」(129頁)、アダムとイブの間のような汚れなき愛の物語(と思われていたもの)が、実は二―ルソンの想像の内に育まれた「幻想」でしかなかったのではないかと疑問を抱くことだろう。実際、そう思って読み返せば、彼が「センチメンタリスト」であることが初めに述べられていたのでもある。

 我々は誰しも人生を一つの物語として解釈し、理解するものであるとすれば、この作品は、その「物語」が本質的にフィクションであるという、その〈真実〉を否応なく読者に突きつける。だからこそこの作品は、その嫌な読後感にもかかわらず(あるいはそれ故に一層に)、鋭く我々の心を打つ何かを秘めているのではないだろうか。そんな風に私には思われた次第である。

 

 いつものように話は変わって。

 Yelle イェールの2011年の2枚目のアルバムは、Safari Disco Club 『サファリ・ディスコ・クラブ』。その中の一曲、"Comme un enfant" 「子どものように」。なんだか色々と変なのだけれど、本人が恰好いいからぜんぶ許されてしまう、という感じだろうか。

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Je chante et je pleure, comme un enfant

Je joue à me faire peur, comme un enfant

Je pense tout et son contraire, comme un enfant

Je danse, j'ai le cœur à l'envers, comme un enfant

("Comme un enfant")

 

私は歌って泣く 子どものように

私は怖がらせて遊ぶ 子どものように

何でも その反対も考える 子どものように

私は踊る 吐き気がする 子どものように

(「子どものように」)

BD『オリエンタルピアノ』/ジュリアン・ドレ「崇高にして無言」

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 こんな作品にいち早く目を止めて、翻訳・紹介できたらきっと誇らしいだろうと、そんな風に思わせる作品が時々あるものだが、この

ゼイナ・アビラシェド『オリエンタルピアノ』、関口涼子訳、河出書房新社、2016年

は、私にとってまさしくそうした一冊である。予備知識ほとんど無しで読み始めたのだが、気がつくと虜になっていて、夢中で読み通した。この鮮烈な衝撃はマルジャン・サトラピの『ペルセポリス』以来のものだと言いたいが、しかしこの作品は決してサトラピの二番煎じではない、ということは強く言っておかなければならない。

 舞台はレバノン。(著者とほぼ同人物と思わしい)語り手の曽祖父にあたる、アブダッラー・カマンジャと、語り手の人生とが交互に語られるという構成になっている。アブダッラーは幼いころから音楽が好きで、父の反対を押し切ってベイルートに上京、ピアノの調教を仕事にするようになるが、ピアノによって中東音楽に特有の四半音(四分音)を出すための工学的な解決法を探しつづける。そして遂にその問題を解決し、ペダルを踏むことで四半音を出すことができるピアノを開発し、ウィーンのピアノ会社に売り込みに行く。それが1959年のことで、作品はそこから始まっている。

 一方、物語の語り手(著者自身は1981年生まれ)は、幼い頃からアラビア語とフランス語のバイリンガルとして育ち、ベイルートで勉強した後、2004年にパリに移住し、十年後にフランス国籍を取得するに至る。レバノンにいた時点では、二つの言語は編み物の縦糸と横糸のように(あるいは二種類のミカドの棒のように)分かち難く混ざり合っていたが、フランスに来た後にはそれをより分ける作業が必要となり、そうした経験の中で、自分にとっての二つの言語の意味を確認していくことになる。

 オリエンタルピアノとは言うまでもなく、西洋と東洋という二つの世界を結びつけるものの象徴である。つながりのないはずの二つの世界がつながる場所。著者は、この曽祖父の発明品の内に、二つの世界に生きてきた自分自身の姿を投影する。平均律と四半音、フランス語とアラビア語。双方と共にあり、両方を慈しみながら生きることこそが、自らのアイデンティティーであるということを語り手は学んでいく。「オリエンタルピアノであるということは、パリで窓を開けて海が見えないかなって思うこと」という作中の言葉は、しなやかであたたかく、美しい。

 オリエンタルピアノは多くの歌手にも高く評価されるのだが、結果的には生産に至ることはない。時代が進んでシンセサイザーが登場すると、それによって四半音が容易に出せるようになることで、オリエンタルピアノはもはや不要なものとなってしまうのである。その意味で言えば、カマンジャの夢は挫折に終わったとも言えるはずだが、しかしこの物語が決して暗いものにならないのは、自らの音楽を愛しつづけた人物として、著者が彼の人生を肯定しているからである。

 マルジャン・サトラピと同じように、アビラシェドの絵も、奥行きのない平面的な画面であり、白黒の二色のみで濃淡はなく、その分ベタの黒色が印象的な絵柄となっている。日本の漫画と根本的に異なっているのは、動き、そして時間の表現であろう。日本の漫画のように動線で動きを示すことはまったくないため、基本的に画面は静止しているのだが、その代わりに、コマ送りの画面構成や、一つのコマの中に同じ人物を繰り返し描く、いわゆる異時同図法によって、時間の中にある動きが巧みに表現されている。

 その延長として、音符などの特定の事物を無限に反復して描くことで独特の効果をあげている場面もあり、圧巻は折り込み頁で描かれたオリエンタルピアノを初披露する場面だろう。そこではどこまでも続くピアノの鍵盤が描かれているのだが、そのピアノが平均律の時はまっすぐに、四半音の時には「腰を軽く振るように」波打って描かれる。音楽が見事に空間的に表現されていて、とくに印象的な場面となっている。

 全体を通して、丁寧に描かれた絵柄と、白黒の色の使い方の巧みさが素晴らしく、一頁全体を一コマで描いた頁では、そのはっとさせるような構図や表現が目を引いて飽きさせない。大胆であると同時に繊細でもあり、素朴であると同時に洗練されてもいる。言うまでもなく、作品の主題である西洋と東洋の融合は、この絵の内にまさしく実現しているのである。

 蛇足ながら付け加えておけば、この作品ではレバノンの内戦についてはごく部分的にしか触れられていない。あえてそこには触れずに、ほのぼのと暖かい物語として語り通すことこそが、自らのルーツとアイデンティティーを確認し、承認するというこの作品には適っていたのだろう。決して肩肘張ることなく、微笑みを浮かべている著者の顔が見えるような、そんな優しさに満ちたこの作品、洋の東西を問わず、文学、音楽、美術のいずれかに関心のある人すべてに、自信を持って一読をお勧めしたい。

 

 最後に、Julien Doré ジュリアン・ドレをもうひと押し。『&~愛の絆』より "Sublime & silence"「崇高にして無言」。南仏のカマルグで撮影されたこのPV、大真面目に馬鹿馬鹿しくて、なんだかよく分からないけれど、どうやらそのよく分からないところが味わいらしい。

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Mais je sais que tu restes
Dans les fleurs que j'te laisse
Après la nuit
Violence & promesses
C'est tout c'que tu détestes
La mort aussi

Le vide aurait suffi
("Sublime et silence")
 
分かってるさ きみは
夜が明けても
僕が残してゆく花のなかに居続けるって
暴力と約束
これが きみの大嫌いなものすべてさ
死も嫌がってるね
 
むなしさは充分味わっただろうに
(「崇高にして無言」、大野修平訳)