えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『風から水へ』/クロ・ペルガグ「凶暴サタデーナイト」

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 縁あって拙著を出版していただいた水声社の社主の(インタビューによる)回想

 鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、を読む。

 とくに後半では学術関連の書籍出版の実態が詳しく語られていて、私も他人事とは言えないのでたいへん興味深く読み耽る。いやはや、いやはや。

 それはそれとして、別の内容の箇所を引用しておきたい。

文学は「飢えて死ぬ子」のまえでは無力ですが、かりにその子が飢えを生き延びて、「大人」になろうとするときには、あるいは「大人」になったときには、絶対的に「必要な」ものです。(その意味では、比喩的に言えば、「精神的な〈餓え〉を癒すもの」ということでしょうか)。人間は、物質的な〈餓え〉さえ解決されればいい、というものではありません(それだけなら動物と同じです)。人間が人間になるためには、人間であるためには、「文学」が絶対に必要なのではないでしょうか。その意味では、「文学」は人間の条件です。「言語」「知性」「芸術」「遊び」「労働」「(生殖を目的としない)性欲」といったようなものが、人間と動物を分かつもの、人間の条件として考えられてきましたが、「文学」もまた人間の条件、非常に重要な条件のひとつなのではないでしょうか。

鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、65頁。)

  文学が絶対に必要だと言い切ること。その覚悟が自分にはまだ足りないのではないかと思った次第。

 

 昨日に続いてクロ・ペルガグ Klô Pelgag の『あばら骨の星』(2016) より、"Samedi soir à la violence"「凶暴サタデーナイト」(という邦題)。

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S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si ta mémoire se noie
Sauve-moi, sauve-moi
S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si la lumière te voit
Sauve-toi, sauve-toi
("Samedi soir à la violence")
 
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしもあなたの記憶が溺れてしまっても
私を助けて、私を助けて
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしも光があなたを見たら
逃げ出して、逃げ出して
(「凶暴サタデーナイト」)

『ファントマ』書評/クロ・ペルガグ「磁性流体の花」

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 ご縁あって『図書新聞』第3321号(2017年10月7日)に、ピエール・スヴェストル、マルセル・アラン『ファントマ』、赤塚敬子訳、風濤社、2017年の書評を書かせていただく。せっかくなので、冒頭の2段落を引用。

犯罪大衆小説の古典、本邦初の完訳

シュルレアリストたちを魅了したベル・エポックの怪人

 

 ファントマとは、1911年から13年にかけて、二人の共著者がフランスで発表した大衆犯罪小説(全32巻)の主人公。次々に強盗や殺人を行う冷血無情の大悪党は、その名が「ファントーム(幽霊)」からの造語であるように、神出鬼没、変装によって様々な人物になりすます。辣腕のジューヴ警部と新聞記者ジェローム・ファンドールがこの悪漢を追い詰めるが、ファントマは最後には身をかわし、物語は次巻へと続いてゆく。それが『ファントマ』シリーズの大筋だ。本書はシリーズ第1巻の初の完訳。誕生から百年を経て、この名だたる犯罪王の真の姿を日本でも確認できるようになったことは、古典的な探偵小説の愛好家にとって嬉しいニュースである。

 物語は殺人事件で幕を開ける。場所はフランス南部の地方都市。真夜中、閉ざされた屋敷の中でラングリュヌ侯爵夫人が殺害される。犯人はいつ、どこから来て、どこへ消えたのか。一方、その場に偶然居合わせたランベール親子。父エチエンヌは、息子シャルルが狂気に駆られて殺人を犯したのではないかと疑う。父は息子を問い詰めた後、二人そろって姿をくらます。親子はどこへ消えたのか、そして息子は本当に殺人犯なのか。この不可解な事件の調査に訪れたジューヴ警部は、そこにファントマの影を感知するが……。

 ちなみにフランス人は「ファントマス」と語末の s を発音するのが普通らしいが、それが何故なのかよく分からない。ま、それはともかく、アルセーヌ・リュパンやジゴマと同時代に大いに流行したこの犯罪小説が、日本でもその名を広く知られるようになってほしいと思う。

 

 クロ・ペルガグ Klô Pelgag の2016年のアルバムL'Étoile thoracique 『あばら骨の星』より、"Les Ferrofluides-fleurs" 「磁性流体の花」(という邦題であるらしい)。

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Les ferrofluides-fleurs

Poussent au milieu des champs magnétiques

Les ferrofluides-fleurs

Germent au cœur des idées érotiques

("Les ferrofluides-fleurs")

 

磁性流体の花は

磁場の真ん中に生える

磁性流体の花は

エロチックな考えの中心で芽生える

(「磁性流体の花」)

 まったく訳が分からなくて素晴らしいなあ。

名前の問題:Romuald/ヴィアネ「パ・ラ~君がいない~」

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 久し振りにゴーチエ『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』、田辺貞之助訳、岩波文庫、1982年の内の「死霊の恋」を読み返す。

 神学生が僧侶になる儀式の最中に絶世の美女に一目惚れ。僧職に就くも鬱々として思いは晴れないでいるところ、件の遊女クラリモンドが臨終の際にあることを知らされ、彼女の屋敷に駆けつけると、すでに彼女は息絶えたところだった。しかし、その通夜の最中に一瞬息を吹き返した彼女は、再会を約束してふたたび息絶える……。というその筋では比較的有名な幻想小説の佳品であるが、それはそうとこの翻訳では主人公の名前は「ロミュオー」となっている。しかし原文を見ると綴りはRomuald である。これでロミュオーと読むのは無理だと思われるが、これはどういうことだろうか。

 そこで気になって懐かしの『怪奇小説傑作集4』青柳瑞穂・澁澤龍彦訳、創元推理文庫、1969年(1979年24刷)を開けてみる。さて「死女の恋」青柳瑞穂訳ではどうなっているかというと、「ロミュアール」とある。なるほど。今なら「ロミュアル」とするのが穏当だろうか。

 せっかくなので他にも翻訳はないだろうか、と思って探してみると、野内良三編訳『遊女クラリモンドの恋 フランス・愛の短編集』、旺文社文庫、1986年というのもある。そこで、そのタイトル作を見てみると、主人公の名は「ロミュアルド」となっていた。うーむ、この語末の d は読むのか、読まないのか、どっちなんだろう。どちらの場合もあったりして。

 まあいずれにしても、田辺貞之助はRomuaud か何かと誤読したのではないかと疑われるのであるが、しかしこんなのは揚げ足取りの類かもしれない。

 そのロミュアル(ド)は、昼はしがない僧侶の暮らし、そして夜には夢の中(?)で絶世の美女とともに放蕩三昧の暮らしを送るようになる。要するにそこに繰り広げられるのは作者の願望そのままの理想の世界であり、その欲望とは、とことん現世的なものである。

 それはそうなのだが、しかしその相手が死から蘇ったものであったり、あるいは「ポンペイ夜話」では遥か昔に実在した女性との再会であったりするのであって、そのように非現実の幻想を介在させる時に、本来はとことん現世的な欲望であるはずのものが、一気に人間的尺度を突き抜けて、現世では実現不可能な「純粋な理想」への希求へと姿を変える(恐らくは)。ゴーチエの見せる絶対的な美と快楽の追求というエドニスム的姿勢の内には、実は「人間的条件」を拒絶したいというあえかな願望が秘められているのかもしれず、そこにこそ、この拍子抜けするような楽天的な物語になぜか読者が惹かれてしまう理由があるのかもしれない……、というようなことを思ってみた。

 

ヴィアネ Vianney『君へのラヴソング』(2017)。オリジナルはファースト・アルバムのIdées blanches (2014)。その中から一番のヒット曲 "Pas là"「パ・ラ~君がいない~」。

www.youtube.com

Mais t'es où ? Pas là...

 

Je te remplace

Comme je le peux

Que tout s'efface

J'en fais le voeu

Ce sera sans toi alors

Je n'ai plus qu'à être d'accord

("Pas là")

 

君はどこ? ここにいない……

 

君の穴埋めしなきゃ

ぼくにできることで

ぜんぶ消えてしまえ

そう念じてる

君はもういないから

認めるしかないから

(「パ・ラ~君がいない~」翻訳:丸山有美)

『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』刊行

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 このたび、水声社より『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』を刊行いたしました。A5判上製、361頁、定価5,000円+税。装幀は齋藤久美子さんです。

blog 水声社 » Blog Archive » 10月の新刊:モーパッサンの修業時代――作家が誕生するとき

 そして本にはどこにも記してませんが、表紙の絵は25歳頃のモーパッサンの肖像を私が描いたものを、お恥ずかしながら使っていただきました。

 以下、固い文面ですが、800字で書いてみた自著紹介を掲載します。

 本書は、フランス19世紀の作家ギィ・ド・モーパッサン (1850-1893) の青年時代の著作(詩・戯曲・小説)の分析を通して、一人の作家が〈誕生〉するとはどういうことかを考察するものである。従来、習作として十分に顧みられることがなかった作品を総合的に分析することで、二十代の青年の成長過程を詳細に跡づけ、作家研究および作品研究の両面に寄与することを目ざしている。

 本書は3章(および序章・終章)からなる。第1章「ポエジー・レアリスト」では、1870年代の活動の中心に位置した韻文詩を取り扱う。当時まだ影響の大きかったロマン主義を偽りの詩情として批判し、物質主義的な世界観に基づく荒々しいレアリスム(現実主義)を導入することで韻文詩の刷新を志すという、青年の意図と野心を明らかにする。また、詩作の実践の過程でレアリスム美学が鍛えられ、そのことが後の散文作家を準備したことを論じる。

 第2章「演劇への挑戦」では、同じ70年代に書かれた戯曲を取り上げる。詩と同様にレアリスムの導入によって韻文歴史劇を刷新しようという著者の試みを検証し、その意義を明らかにすると同時に、演劇の試みが彼に何をもたらしたかを明らかにする。

 第3章「小説の誘惑」においては、同時期に書かれた中短編小説と、最初の長編(後の『女の一生』)を対象とする。小説において個人的に重要なテーマが発掘されていること、また長編小説の試みの中に、レアリスム作家の理念と技法の成長が認められることを明らかにする。その後、1880年に発表された「脂肪の塊」の分析を通して、この作品を執筆する中で、作者自身が散文の持つ可能性(その社会性・批評性)を発見したことが、詩人から小説家への〈転向〉の決定的な理由となったと論じている。

 終章においては、1870年代のすべての活動を通して、確固たる文学理念と技法を備えた1人の芸術家が準備されたからこそ、「脂肪の塊」以後の作家の成功が保証されたと結論づけている。

  なお、出版に際しては名城大学学術研究奨励制度の助成を受けたことをここに記し、名城大学に感謝を述べたいと思います。

 ちなみに、モーパッサンの絵は本当はカラーで描いていました。さすがに恥ずかしくてこのままでは出せませんでしたけど。

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2017.10.30. 追記

 日本フランス語フランス文学会のCahier電子版に、自著紹介を掲載していただきました。上に掲載した文章に推敲を加えたものです。

cahier電子版 - 日本フランス語フランス文学会

 この場を借りて、ご手配いただいた先生方に御礼を申し上げます。

シンポジウム「象徴主義と〈風景〉」

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 チラシを作成したので、こちらでも宣伝を。

 

連続シンポジウム「象徴主義とは何か」第1回

象徴主義と〈風景〉 ―ボードレールからプルーストまで」

日時:2017年9月30日(土)10:00 - 18:30

場所:東北大学 マルチメディア教育研究棟6階ホール

主催:東北象徴主義研究会

共催:関西マラルメ研究会(第25回研究発表会を兼ねる)

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「十九世紀における小説の進化」/ジョイス・ジョナタン「幸福」

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 昨日はモーパッサンの誕生日。

 それより数日前に翻訳を一つ仕上げる。

モーパッサン 『十九世紀における小説の進化』

 また文芸論を訳してしまった。

 『1889年万国博覧会誌』に載ったこの記事には挿絵が2枚あって、1枚はこのルイ・ブーランジェによるバルザック肖像画。万博の時には革命100周年を記念する美術展も開催されており、そこで展示されたものらしい。しかしあんまり似ていないように見える。ちなみに同じ雑誌に、テオドール・ド・バンヴィルは詩についての19世紀の回顧を記している。

 19世紀の小説の元祖はルサージュでもルソーでもなくアベ・プレヴォーであり、プレヴォーこそが観念的ではない真に現実的で血脈をそなえた人物の創造に成功した、という評価はモーパッサン独自のものといっていいだろう。一方、リアリズム小説を完成に導いた作家としてバルザックスタンダールフロベール、ゾラの四名を挙げるのは、今日の仏文学史の記述とも基本的に変わらない。それは、評価すべきことだと思う。

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  そして挿絵のもう一枚はラファエリによるエドモン・ド・ゴンクール肖像画としてはこちらの方が有名かと思われる。これは10年ごとの展覧会に展示されたらしい。

 話は戻って、モーパッサンの言葉で一番興味深いのは、解説にも記したとおり、1889年(著者39歳)の時点で、彼が新しい世代の作家たちの主張するところを知っていたという事実であろう。

こんにち現れたばかりの新人たちは、貪欲な好奇心をもって人生へと向かい、自分たちの周囲に熱心にそれを眺め、それぞれの気質次第の力強さでそれを享受したり、苦しんだりする代わりに、もはや自分たち自身しか眺めず、ただ自分たちの魂、心、本能、美質や欠点ばかりを観察し、最終的な小説の形は自伝でしかありえないと宣言している。

モーパッサン「十九世紀における小説の進化」)

 これが具体的に誰を指すのかははっきりしないけれど、こうした主張の先に、プルーストやジッドの登場があるということは疑いない。

 観察に基づき、他者を描くことを求めた19世紀から、自己内省への20世紀へと向かう時代の大きな転換を、モーパッサンはこの時点ですでに、しっかりと感じ取っていたのである。たとえ彼が旧世代の側に属していたことも確かだとしても。

 

 Joyce Jonathan ジョイス・ジョナタンの2016年のアルバムUne place pour moi『私のための場所』より"Le Bonheur"「幸福」などを。

www.youtube.com

Le Bonheur, c'est pas le but mais le moyen

Le bonheur, c'est pas la chute, mais le chemin

Mon bonheur, c'est toi

Mon bonheur, tu le sais

C'est toi et moi sur l'oreiller

("Le Bonheur")

 

幸福、それは目的ではなく手段

幸福、それは結末ではなく途中

私の幸福、それはあなた

私の幸福、ねえそうでしょ

それは同じ枕の上のあなたと私

(幸福)

「ギュスターヴ・フロベール」1884年、翻訳掲載

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 これも1年前に描いたフロベールを恥ずかしながら掲載。

 

モーパッサン 『ギュスターヴ・フロベール』 (I)

モーパッサン 『ギュスターヴ・フロベール』 (II)

 昨日、ようやくのことで仕上げたモーパッサンによるフロベール論(『ジョルジュ・サンド宛書簡集』に序文として書かれたもの)の全訳を掲載。

 ワードの情報だと最初に原稿を起こしたのは2007年11月。なんとまあ。もちろんほとんどの期間は放置されていたのであるけれど、それにしてもずいぶん長くかかったものだ。四百字詰めで約150枚、およそ論文2本分という量は、プロの翻訳家にはもちろん何ほどのものでもないだろうけれど、私としてはよく頑張ったと言いたい。

 このフロベール論は、モーパッサンによる評論文としてはもっともヴォリュームのあるものであり、それだけ思いの詰まった力作である。正直いささか冗長ではないかと思うところもないではないが、それはそれ。1884年の時点でフロベールの人と文学についてこれだけのものを書けたのは恐らくモーパッサンをおいて他になかっただろう。これは弟子による亡き師に対する最上のオマージュであると同時に、当時決して十分に理解されているとは言えない状況にあった特異な作家の才能の最良の弁護であった。

 フロベールって誰? という人にもぜひとも読んでいただきたい文章です。長いけど。

 

 以下、備忘のためのメモ書き。

 本論は先に 『政治文学評論』Revue politique et littéraire の1884年1月19日号(p. 65-70)、1月26日号(p. 115-121)に掲載されたが、ただし『ブヴァール』資料を含む大きな削除があった。

 その第1回目の原稿において、モーパッサンはマキシム・デュ・カンが『ボヴァリー夫人』の雑誌掲載時に大幅な削除をフロベールに提案していた手紙を暴露しているが、これに腹を立てた当時アカデミー会員のデュ・カンは雑誌宛に執達吏経由で通達を送付。以後の自身の手紙の掲載の拒否および、フロベールの遺産相続人の姪夫婦を訴えるつもりだと伝えてきた。

 そこで雑誌主幹のウージェーヌ・ヤングは1月26日号の冒頭にそれについて言及、その上で書簡の権利はそれを受け取った者にあることを明確にし、かつマキシム・デュ・カンは彼の『文学的回想』の中で、彼が受け取ったフロベールの書簡6通を無断で掲載した事実を指摘している。

 

 なお、モーパッサンとデュ・カンとの間の確執はこれに始まったことではなかった。

 デュ・カンは彼の『文学的回想』Souvenirs littéraires の連載の中でフロベールとの交遊について語った際に、青年時代のフロベールがたびたびてんかんの発作に襲われていたという事実を暴露した。その上で、この病気が理由でフロベールの精神的成長が止まってしまったのではないかとし、それによって彼の作家としての特異性を説明づけられると語った。

Ma conviction est inébranlable : Gustave Flaubert a été un écrivain d’un talent exceptionnel ; sans le mal nerveux dont il fut saisi au début même de sa jeunesse, il eût été un homme de génie.

(Maxime Du Camp, « Souvenirs littéraires. Quatrième parie (I), VII. Gustave Flaubert », Revue des Deux Mondes, 1er septembre 1881, p. 21.)

 

私の確信は揺らぐことがない。ギュスターヴ・フロベールは例外的な才能を持つ作家だった。青年時代のはじめに彼が捕われた神経の病がなければ、彼は天才となっていただろう。

(マクシム・デュ・カン「文学的回想」、『両世界評論』、1881年9月1日号、21頁。)

  これに対してモーパッサンは激怒し、反論「友情?……」(『ゴーロワ』紙、1881年10月25日)を執筆し、自分だけでなく、フロベールを直接・間接に知る者の多くがデュ・カンによって傷つけられたと訴えている。フロベールが天才ではなかった? バルザックの後に現代小説を作り上げた者、そのインスピレーションが今日の文学に影響を与えている者、その息吹が今日書かれる作品に認められる者が天才でなかったとは何事かと、モーパッサンの憤りが伝わってくる一文となっている。