えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

バンヴィルとエッフェル塔

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 慶賀新年。本年もよろしくお願い申し上げます。

 先日、古書店で一冊の本が目に留まり「面白そう」と思って手に取って、そのまま店内をうろうろしている内に、なぜかだんだんと気になってくる。もしかして既に持っているんじゃないだろうか。考えれば考えるほどそのような気になるも確信はなく、さんざん迷った挙句に、結局は本を書棚に戻し、どきどきしながら帰宅してみると、やはりすでに購入していたのであった。いやー良かった。

 教訓、本は買っただけでは意味がない。

 まあ当たり前ではある。買った本ぐらい覚えておきたいものですね。ため息。

 さて、その問題の本が、倉田保雄『エッフェル塔ものがたり』、岩波新書、1983年、であるのだが、そういう訳で反省して、しっかりと読みました。「鉄の塔」以前に「石の塔」の計画があった(石で366メートルの塔を建てるという案で、実現していたらそれはそれで凄かっただろう)という話から始まって、建設費用が幾らとか、工事の進展具合はどうだったかとか、当時の料金は幾らだったとか、入っていたレストランはどのようだったかとか、文字通りエッフェル塔に関する蘊蓄がこれでもかと出てくる本であった。

 その中に、塔の計画が持ち上がった当初に、インテリたちの反対運動があったという話があり、そこにモーパッサンも加わっていたわけだけれども、その一方で、詩人テオドール・ド・バンヴィルエッフェル塔を称える詩を書いていた、という話が出てくる。47-48頁。なるほど、そんなことがあったのか、と驚いたので、現物を探してみた、というのが今日のお話。1890年、詩集『ソナイユとクロシェット(どちらも小さな鈴を表す)』中の、「エッフェル塔」という8音節6行詩節11連からなる作品であった。『エッフェル塔ものがたり』では一部のみの引用なので、以下に全文の拙訳を掲載。長いので原文は割愛します。

エッフェル塔

 

エッフェル塔よ、育て、さらに昇れ

光の中に、曙の中に

静かなる天空の中に

ヘカテの黒き足の間に生まれたお前

昇れ、繊細なる大輪の花よ

暗い空にお前の額を届かせよ。

 

何故なら、炎の心持つ天才が

大地をその奥底まで探索し

地獄の扉まで行き着いて

希望の育つ喜ばしき巣を

フランスのために準備しようと

その巣を鉄の枝で編むのだから。

 

そうだ、ますます巨大になれ

そしてお前の朱の鉄線に魅了され

驚く群衆たちの目の前に

現れよ、光の中に浸りながら

さながら、太陽の光がそこに

もつれる蜘蛛の巣の如くに。

 

近づく種まきの時期に

レースの網目と共に光り輝け

煌け、豪華な宝石よ

そして愛撫で魅了せよ

卓越した細工師が編む

透かし模様ある金銀細工よ。

 

巨大な翼を羽ばたかせ

お前のプラットフォームへ飛び来よう

勇敢なるタカ、また白ハヤブサ

ハゲワシや、貪婪なるワシどもが

だがこのテラスを凝視して

あまりに高すぎると思うだろう。

 

さらに昇れ、途轍もない塔よ!

紺碧に輝く海と

リビアの嵐との神が

和解して寄り集いし

バベルの集団に言うだろう

今こそ来たれ、我それを望まんと。

 

塔は育ち、その頂で

頭をもたげる、不屈なる〈人間〉は

明るい眼を大きく開いて

その日常の日々の中で

雷鳴をその腕に抱き

稲妻と戯れもするだろう。

 

何故なら、かつて貞淑、嫉妬深かった

〈科学〉は、今日〈人間〉を

夫に迎え、東洋を眺めやり

星々を覆いしヴェールを

引きはがさんと思い立ち

ほほ笑みながら、口づけをする。

 

傷つけられることも恐れず

解放者たる〈科学〉は

かつて人の目に見えざりし

鎌をその手に握りしめ

服喪の悲しみ、戦争や

大砲、死刑台を刈り取るだろう。

 

塔よ、空間に花咲く百合よ

力と優美さの巨人よ!

苦い疑念を唖然とさせて

確信と陶酔とが戻り来たるや

お前の土台を愛撫するだろう

さながら海の波の如くに。

 

そして、たじろぐ風にもかかわらず

お前を徹夜で見守る者は、灯台の傍らで

魔法のかかりし自然の中に

物音が止む神聖なる時刻において

オルフェウスの竪琴が

夜の中、星々を導くのを聞くだろう。

 

1889年1月8日

テオドール・ド・バンヴィルエッフェル塔」、『ソナイユとクロシェット』(1890)

Théodore de Banville, « Tour Eiffel », dans Sonnailles et clochettes (1890).)

 作者の人の好さがにじみ出ているような愛らしい作品であるが、塔の完成以前にバンヴィルが率先してエッフェル塔を賞讃していたというのは、興味深い事実である。これはつまり断固反対していたモーパッサンより、年長者のバンヴィルの方が進んでいたということなのだろうか? エッフェル塔を歌った詩人としてはなんといってもアポリネールが有名であり、彼の詩を読むといかにも20世紀という感じにさせられる、とこれまで思っていたが、それって案外幻想だったのだろうか? もっともバンヴィルの詩は古典的素養に溢れ、エッフェル塔という主題を除けば実に伝統的な形式に則ったものであるのは紛れもないけれど。

 なにはともあれ、以上、読書報告。一度は読んだという事実だけは忘れてしまわないように願いたい。一年の冒頭から、なんだか情けない願いだけれども。

映画『女の一生』の中の詩

映画『女の一生』チラシ


 ステファヌ・ブリゼ監督『女の一生』(2016)の中には詩が朗読される箇所があるのだが、その詩がモーパッサン自身のものであると、パンフレットの永田千奈氏の解説に書かれていて「おお、そうだったか」と思う。そりゃあ、もちろん気がつきませんでした。

 実際には詩は三ヶ所で出てくるので、それをまとめて確認してみよう。

 一つ目は冒頭近く、ジャンヌはまだ結婚前、ノルマンディーの海辺のシーンで読まれる。これは16世紀の詩人ピエール・ド・ロンサールの「夏の賛歌」であった。

 豊穣の神ケレスが「夏」に向かって語る言葉。該当箇所のみを引く。括弧の中の2行は映画では省略されている。綴りは現代のものに直してある。

Je ne viens pas ici, tant pour me secourir

Du mal de trop aimer, dont tu me fais mourir,

Que pour garder ce monde, et lui donner puissance,

Vertu, force et pouvoir, lequel n’est qu’en enfance

Débile, sans effet, et sans maturité

Par faute de sentir notre Divinité.

Depuis que le Printemps, cette garce virile,

Aime la Terre en vain, la Terre est inutile,

(Qui ne porte que fleurs, et l’humeur qui l’époint

Languit toujours en sève, et ne se mûrit point.)

De quoi servent les fleurs, si les fruits ne murissent ?

De quoi servent les blés, si les grains ne jaunissent ?

Toute chose a sa fin et tend à quelque but,

Le destin l’a voulu, lors que ce Monde fut

En ordre comme il est : telle est la convenance

De Nature et de Dieu par fatale ordonnance.

(Pierre de Ronsard, "Hymne de l'été")

 

私がここに来たのは、あなたが私を死なせようとする

愛しすぎる苦しみから、自らを救おうとするのではなく

この世界を守り、可能性と、精神と体の力、

能力を与えるため。世界はまだ幼年時代

ひ弱で、力を持たず、成熟していない

我らの神性を感じることができぬゆえ。

春、あのたくましい娘が

大地を愛しても空しく、大地は無益

(花しかもたらさず、掻き立てられる気質は

つねに生気に倦み、熟することがない。)

花が何の役に立とう、果物が熟さないなら?

麦が何の役に立とう、穂が黄色くならないなら?

すべてのものには目的があり、何かを目指している

運命がそう望んだのだから、この世界が

現にあるように秩序だてられた時に。それが

運命の命令による自然と神の調和。 

(ピエール・ド・ロンサール「夏の賛歌」)

 人生への希望に胸膨らませるジャンヌの心境に適ったものであるが、より直接的に結婚に対する期待の投影とも取れるかもしれない。なるほど、ロンサールかあ。教養だ。

 二つ目は結婚後。ジュリアンの吝嗇かつ横暴な性格が明るみに出た後、冬の海辺に佇むジャンヌのシーン。これがモーパッサンの「創造神」。高校生の頃に書かれた詩篇だ。

Seigneur, Dieu tout-puissant, quand je veux te comprendre,
Ta grandeur m’éblouit et vient me le défendre.
Quand ma raison s’élève à ton infinité
Dans le doute et la nuit je suis précipité,
Et je ne puis saisir, dans l’ombre qui m’enlace
Qu’un éclair passager qui brille et qui s’efface.
Mais j’espère pourtant, car là-haut tu souris !
Car souvent, quand un jour se lève triste et gris,
Quand on ne voit partout que de sombres images,
Un rayon de soleil glisse entre deux nuages
Qui nous montre là-bas un petit coin d’azur ;
Quand l’homme doute et que tout lui paraît obscur,
Il a toujours à l’âme un rayon d’espérance ;
Car il reste toujours, même dans la souffrance,
Au plus désespéré, par le temps le plus noir,
Un peu d’azur au ciel, au cœur un peu d’espoir.
(Guy de Maupassant, "Dieu créateur")
 

主よ、全能の神よ、あなたを理解したいと望むとき

あなたの偉大さが目をくらませ、私にそれを禁じる。

私の理性があなたの無限へと昇ってゆくとき

私は疑いと闇の中へと投げ落とされる

そして私にからみつく影の中で、私が掴みうるのは

瞬いては消える束の間の稲光のみ。

だがそれでも私は望む、なぜならあなたは彼方でほほ笑むから!

なぜならしばしば、悲しい灰色の太陽が昇るとき

いたる所に暗いイメージしか見えないときにも

雲の隙間に一筋の日光が注いで

彼方に青空の切れ端を見せてくれるから。

人が疑い、すべてが暗く見えるときにも

魂には一筋の希望の光がさしている。

なぜなら、苦悩の中にあっても

最も絶望する者にも、最も暗い天気のときにも

空にはいくらか青空があり、心にはいくらか希望があるのだから。

(ギ・ド・モーパッサン「創造神」)

 なお、全文の拙訳はこちらに掲載。

モーパッサン「創造神」

 この時点でのジャンヌの心境を映すものとして選ばれたものと思えるが、この朗読の後すぐにジュリヤンの浮気が発覚することを思えば残酷でもある。それにしてもモーパッサンが18歳の頃のこんな詩にまで目を通していたとは恐れ入るばかり(脚本はステファヌ・ブリゼとフロランス・ヴィニョン)。

 そして三つ目は終盤に近く。学校を辞めてレ・プープルに帰って来ていた息子のポールが出奔した後のシーン。詩はマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの「私は渇いていた」。これも該当箇所のみの引用。

Je t’aime comme un pauvre enfant

Soumis au ciel quand le ciel change ;

Je veux ce que tu veux, mon ange,

Je rends les fleurs qu’on me défend.

Couvre de larmes et de cendre,

Tout le ciel de mon avenir :

Tu m’élevas, fais-moi descendre ;

Dieu n’ôte pas le souvenir !

(Marceline Desbordes-Valmore, "J’avais soif")

 

私はあなたを愛する、空が変わる時には

空に従う哀れな子どものように。

あなたの望むものを私も望む、我が天使よ

禁じられた花をあなたにあげよう。

涙と灰で覆ってほしい

私の未来の空全体を。

あなたが私を持ち上げたから、私を下ろしてほしい。

神は思い出を奪いはしないでしょう!

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「私は渇いていた」)

  盲目的に息子を愛する母の心境にあうものとして選ばれたものか。正直に言うともう一つよく分からない詩ではある。

 モーパッサンはロンサールは愛好していたが、デボルド=ヴァルモールは知っていたかどうかも疑わしい。だからこれは純粋に脚本家の好みで選ばれたものだろう。いずれにしても手抜きのない丁寧な仕事がされていることが、これらの詩の選択にも窺われるようである。

映画『女の一生』(ステファヌ・ブリゼ監督)鑑賞報告

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映画『女の一生』オフィシャルサイト

 

 12月9日(土)より岩波ホールなどで公開される、ステファヌ・ブリゼ監督『女の一生』を試写会にて鑑賞。その感想を記しておきたい(というのはつまり宣伝と無縁ではないと、前もって記しておこう)。

 この映画の第一の特徴は、アスペクト比1.33対1という(一昔前のテレビのような)正方形に近い画面が選ばれており、手持ちカメラで撮影されている点にあるだろう。クローズアップが多用され、しばしば人物の顔や身体が枠をはみ出し、それによって画面の狭さが一層強調されている。観客は、ある種、窃視しているような感覚に捕われることもあるかもしれない。そのような撮影方法の結果として、人物との距離がとても近く感じられ、そこから親密さが生まれる場合もあるが、それ以上に息苦しさを感じさせもする。それが主人公ジャンヌの捕われた(家族という)狭い世界を象徴的に示すものであることは、容易に理解されるだろう。手持ちカメラによる揺れる画面は、その世界の不安定さを意味している。

 主人公のジャンヌは、17歳で寄宿学校を出て、ノルマンディー沿岸のレ・プープルと呼ばれる屋敷に身を落ち着ける。そこで最初に出会った青年ジュリアンに恋心を抱くと、すぐに結婚が決まる。身寄りのないジュリアンと共にレ・プープルでの暮らしが始まるが、その時から彼女を待っているのは、人生に対する失望と絶望の日々である。主人公役のジュディット・シュムラ(1985-)は、疑うことを知らない純粋さを保ち続ける女性としてのジャンヌを実によく体現していたと言ってよいだろう。下心を持たずに他者を信頼するジャンヌは、それゆえにこそ、次々に夫ジュリアン(スワン・アルロー)、友人、母親(ヨランド・モロー)、息子に裏切られることになる。

 さらに、ジャンヌの運命を決定的に追いつめるのが、二人の対照的な神父である。一人目のピコ神父は、裏切った夫との同居に耐えられずに実家に戻りたいと願うジャンヌに対し、「許す」ことを強要し、彼女の意志を挫く。だが彼女を待っているのは新たな裏切りである。そして、夫とフールヴィル伯爵夫人との不貞を知ったジャンヌに対し、二人目のトルビヤック神父は、今度は「真実」の名のもとに、フールヴィル伯爵に事実を伝えるように命じる。そして待っているのは、決定的な破綻なのである。他者(そこには恐らくは神も含まれるのだろう)への信頼は、ことごとく仇となってジャンヌのもとに帰ってくる。それが人生の、運命の見せる残酷さなのだと、作者モーパッサンは、あるいは監督は告げているようである。

 そんな彼女は次第に過去への追憶にすがるようになるのだが、映画ではそれがフラッシュバックの多用によって表現されている。人生とは現在時だけで成り立つものではなく、思い出に耽ることもまた人生の一部であろう。コルシカへの新婚旅行や、幼い息子ポールとの戯れといった回想シーンはさんさんと降り注ぐ光に溢れる一方で、(現実の)冬のノルマンディー沿岸の光景は、どこまでも厳めしく寒々しい。だがそれは無類に美しくもある。

 この、随所に差し挟まれる美しい自然の光景が、この映画のもう一つの見所であることにも異論はないだろう。巡りゆく季節の中で、英仏海峡の海は、時に穏やかに光り輝き、時に激しい波を立てて押し寄せる。自然は過酷である。しかし人間とは違って、自然は裏切ることがないのだ。この映画では冒頭から、ジャンヌが畑仕事に精を出す場面が何度か現れる(原作では幼少時のポールの場面のみで描かれていた)が、それは、ジャンヌが自然の中の存在であること、そして自然との繋がりの内においてこそ幸福を見いだすことができる、と語っているかのようである。

 映画は原作の筋を基本的に忠実に辿っているが、しかし個々のシーンや台詞の多くは独自なもので構成されている。原作をよく咀嚼した上で、それを映画的表現に移し替える作業がしっかりと入念になされた結果であろう。そしてこの映画は、恐らくは原作以上に徹底して、主人公ジャンヌひとりに焦点を当てた作品となっている。18歳から(27年後の)45歳頃に至るまでの一人の女性の姿を、彼女の喜怒哀楽の表情と細かな仕草のすべてを、カメラは丹念に、じっくりと、時に執拗なほどまでに追い続ける。2時間を通して、まさしく彼女の〈人生〉が、それだけが丁寧に切り取られ、描かれてゆくのを観客は目にすることになる。

 もっともカメラの眼差しは優しいばかりではなく、時には辛辣な視線をヒロインに向けもする。ジャンヌが父親を相手に、自分がポールを甘やかしているのを正当化してみせたり、家の管理を助けてくれるロザリーに対して被害妄想を抱いたりする場面がそうだ。ヒロインのジャンヌは我々の前にどこまでも等身大で、とても身近な姿を見せ続けるのであり、我々はそっと寄り添うように、そんな彼女の人生を共に経験してゆくのだ。

 ステファヌ・ブリゼ監督の映画『女の一生』は、決しておざなりな文芸映画の一本ではなく、明確で揺るぎない芸術観に貫かれた、いささか実験的で、十分に繊細かつ細やかな配慮の行き届いた、すぐれて芸術的な作品である。古臭いメロドラマに陥るような罠にはまらずに、原作を見事に昇華してみせた監督の手腕と、主演ジュディット・シュムラの心のこもった好演とに拍手を送りたい、と締めくくれば、あまりに褒めすぎたことになるだろうか。

 いや決してそうではないと、今の私は自信を持って言いたい気分なのである。

 

 最後に一点補足しておくなら、2時間の中で30年近くの人生を描く以上、この映画は断片的なシーンの連続からなっており、その繋がりはいささか唐突な感を抱かせる場合も少なくない(とりわけ冒頭から前半にかけてその印象が強い)。恐らくは鑑賞前に原作に目を通しておいた方が、理解に負担が少ないだろうと思われる。岩波文庫(杉捷夫訳)、新潮文庫(新庄嘉章訳)、光文社古典新訳文庫(永田千奈訳)、モーパッサンは書店で今も健在であることを記して、稿を閉じることとしたい。

 

『寛容論』の中の日本人/ザジ「すべての人」

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 キリスト教徒がお互いに寛容でなければならないのを立証するには、ずば抜けた手腕や技巧を凝らした雄弁を必要としない。さらに進んでわたしはあなたに、すべての人をわれわれの兄弟と思わねばならないと言おう。なに、トルコ人が兄弟だと、シナ人、ユダヤ人、シャム人が兄弟だと君は言うのか。いかにも、そのとおり。われわれはみんな同じ父をもつ子供たち、同じ神の被造物ではなかろうか。

ヴォルテール『寛容論』(1763年)、中川信訳、中公文庫、2011年(2016年4刷)、「第22章 あまねき寛容について」、158頁。)

  トゥールーズの商人ジャン・カラスは、息子マルク=アントワーヌを殺した罪を問われ、死刑に処せられる。1762年3月のことだ。

 ジャンの一家は新教徒だったが、マルク=アントワーヌは翌日にカトリックへの改宗の宣誓をする予定になっていた。それを許すことができずに父親が殺害に及んだと、裁判で認められたのである。だが実際には、これは旧教徒の新教徒への憎悪が生み出した冤罪事件であり、裁判官は世論に与する形で不合理な判決を下したのだった。

 ジャン・カラスの無実を確信したヴォルテールは、関係する書類の出版を行い、当時の名だたる有力者に書簡を送り、さらに世論を喚起するために『寛容論』を執筆した。不寛容がいかに愚行を生み出してきたか、寛容がいかに尊いものであるかを説いた本作は、今でも事あるごとにその名が思い返される作品となっているが、とにかく、カラスの冤罪を勝ち取るためのヴォルテールの獅子奮迅とも言うべき尽力には頭が下がる。誰にもできることではないだろう。

 それはそうと、この『寛容論』には日本人が出てくることをご存知だろうか。

  日本人は全人類中もっとも寛容な国民であり、国内には穏和な一二の宗派が根を下ろしていた。イエズス会士がやってきて一三番目の宗派を樹立したのだが、しかしすぐに他の宗派を容認しようとしなかったために、ご存知のような結果を招いてしまった。すなわち、カトリック同盟のさいにも劣らぬすさまじい内乱がその国土を壊滅させてしまったのである。そのあげく、キリスト教は血の海に溺れ死んだのである。日本人は外の世界に自国の門戸を閉じ、イギリス人の手によってブリテン島から一掃された手合と同類の野獣のごとき存在としてしかわれわれヨーロッパ人を見なくなるに至った。大臣コルベール卿は日本人の助力を得たいと思ったが、相手側ではわれわれフランス人の助力を少しも必要とはしなかったので、この国と貿易関係を樹立する企ては水泡に帰した。大臣は相手がてこでも動かぬのを知らされたのであった。

(同前、「第4章 寛容は危険であるか、またいかなる民族において寛容は許されているか」、42-43頁。)

  全人類中もっとも寛容な国民。それはきっと麗しい誤解に違いなかっただろう。しかしまあ、麗しい誤解であったということは、決して悪いことではなかったに違いない。

 

 なんとなく話の流れで、ザジ Zazie の "Tout le monde"「すべての人」を聴く。1998年のアルバム Made in Love から。

www.youtube.com

Tout le monde il est beau

Quitte à faire de la peine à Jean-Marie

 

Prénom Zazie

Du même pays

Que Sigmund, que Sally

Qu'Alex, et Ali

 

Tout le monde il est beau

Tout le monde il est grand

Assez grand pour tout l'monde

("Tout le monde")

 

すべての人が美しい

たとえジャン=マリーを悲しませるとしても

 

ファーストネーム、ザジ

ジグムント、サリー、

アレックス、アリ

と同じ国に所属

 

すべてのひとが美しい

すべての人が偉大

すべての人にとって十分に偉大

(「すべての人」)

 言わずもがなではあるが、ジャン=マリーとは国民戦線の生みの親のジャン=マリー・ル・ペンのこと。

『時制の謎を解く』/ジョイス・ジョナタン「今時の女の子たち」

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 フランス語には時制が多い。それは確かに認めざるをえない事実だ。複合過去に半過去に大過去に前過去があって、前未来ってなんだっけ……、というのは学習者が一度は通らなければならない道だろう。

 それにしてもなんでこんなに多いんだ、と多くの人が一度は疑問に思うに違いない。しかし、そんな根本的な大きな問題に、いったいどうやったら答えられるだろう。そんなことをくどくど考えるよりも、とりあえずあるもんは覚えるより仕方あるまいと、ため息をつくばかりだった人もいるだろう(いやまあ、私のことだ)。

 ところが、どっこい。そんな根本的な問いに、しっかりと答えてくれる本が登場した。

 井元秀剛『中級フランス語 時制の謎を解く』、白水社、2017年

 これは実に明快に、フランス語の時制の「謎」を解き明かしてくれる本だ。その目次を見れば、どのように話が進んで行くかが簡明に見て取れる(ところも素晴らしい)。

 第1章 時制をめぐる謎

 第2章 謎解きの道しるべ

 第3章 さまざまな時制の謎を解く

 第4章 半過去の謎を解く

 第5章 日本語や英語からみたフランス語の時制

 第1章では(普段あまり意識していない)時制をめぐるさまざまな「謎」が提示され、なるほど言われてみればあれこもこれも気になる(でも自分ではうまく説明できない)ものばかり。改めて、フランス語の時制の奥深さを思い知らされる思いがする。

 たとえば半過去の使用例では、モーパッサンの『女の一生』も挙がっている。冒頭近く、ジャンヌの一家が馬車でレ・プープルの屋敷に着いた場面だ。

Cependant on s'arrêta. Des hommes et des femmes se tenaient debout devant les portières avec des lanternes à la main. On arrivait.

(そのうち馬車が止まった。下男や下女たちが手に手に灯りを持って、馬車の昇降口の前に立っていた。到着したのである。(新庄嘉章訳))(13頁に引用)

最後の「到着した」はすでに動作が完了しているのに、ここでは半過去(未完了)が使われているのは、一体なぜなのか。うーむ。

 さて、そうした謎を解くために、第2章では「メンタルスペース理論」によって各時制の記述が行われる。時制とはつまり、基点となる時点 (BASE) にもとづいて、出来事 (EVENT) を記述する際に、どの視点 (V-POINT) から、どの時点に焦点を当てて(FOCUS) 見るか、という話であり、この4つの要素が時間軸のどこに置かれるかという組み合わせの問題なのである。さらに言えば、どの要素を重視するかには言語によって差異が存在するということでもある。

 この「メンタルスペース理論」による説明は大変に明快で無駄がなく、説得力のあるものだ。この章の説明をしっかり理解できれば、第3章、そして半過去に特化した第4章において、第1章で挙げられていた「謎」が次々に論理的に説明されていくことに心地よささえ覚えることができるだろう。

 しかも話はそこに留まらず、第5章では言語の基本的な特性として「外側から描く」Dモード、「内側から描く」Iモードという概念が導入される。日本語が典型的なIモード、英語がDモードの言語である時に、フランス語はDモードでありつつもIモード的な要素を持っている、いわば日本語と英語の中間に位置する言語だという。そして、この根本的な言語の性格によって、最初にして最大の問い「なぜフランス語には時制が多いのか」の答が、最後に導かれることになる。

 なお、本書は各課が4頁でまとめられており、段階をきっちりと追って話が進むので、たいへんに理解しやすく書かれているのも有難い。

 いや、この晴れ晴れとした読後感はなんと気持ちの良いものだろう。これまでずっと、日本語とフランス語は根本的に違う言語だと思っていたが、実はそういうのは浅はかな考えだったのだ。英語と比較するならば、フランス語の物の見方にはむしろ日本語に近い点も存在する。この、英語とフランス語を比較してみるというのが、これまでの私には完全に欠落していた視点だ。つまり、三言語を視野に入れることでこそ見えてくるものが確かに存在するということを、私は同時に学ぶこともできたと言えるだろう。

 その意味において、本書は「外国語の学習は2言語以上学んでこそ真価を発揮する」という理論の、最上の実例を提示するものであるかもしれない。

 なにはともあれ、20年前に書かれていてほしかった、と思ってしまうような、これはそんな素晴らしい本でした。

 

 ジョイス・ジョナタンJoyce Jonathan の2016年のアルバム Une place pour moi『私のための場所』の中から、ヴィアネ Vianney とのデュオで、"Les Filles d'aujourd'hui" 「今どきの女の子たち」

www.youtube.com

On s’rend débiles
D’amour un temps
On se défile
Pourtant
Avant d’écrire
Le jour suivant
Mais volant de ville en ville, vivons-nous vraiment ?
Mais volant de ville en ville, vivons-nous vraiment ?
("Les Filles d'aujourd''hui")
 
一時は 恋のおかげで
バカになる
でも
逃げ出してしまう
次の日を
記すより前に
でも町から町へと飛び移って、私たちは本当に生きているのかしら?
でも町から町へと飛び移って、私たちは本当に生きているのかしら?
(「今時の女の子たち」)

『風から水へ』/クロ・ペルガグ「凶暴サタデーナイト」

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 縁あって拙著を出版していただいた水声社の社主の(インタビューによる)回想

 鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、を読む。

 とくに後半では学術関連の書籍出版の実態が詳しく語られていて、私も他人事とは言えないのでたいへん興味深く読み耽る。いやはや、いやはや。

 それはそれとして、別の内容の箇所を引用しておきたい。

文学は「飢えて死ぬ子」のまえでは無力ですが、かりにその子が飢えを生き延びて、「大人」になろうとするときには、あるいは「大人」になったときには、絶対的に「必要な」ものです。(その意味では、比喩的に言えば、「精神的な〈餓え〉を癒すもの」ということでしょうか)。人間は、物質的な〈餓え〉さえ解決されればいい、というものではありません(それだけなら動物と同じです)。人間が人間になるためには、人間であるためには、「文学」が絶対に必要なのではないでしょうか。その意味では、「文学」は人間の条件です。「言語」「知性」「芸術」「遊び」「労働」「(生殖を目的としない)性欲」といったようなものが、人間と動物を分かつもの、人間の条件として考えられてきましたが、「文学」もまた人間の条件、非常に重要な条件のひとつなのではないでしょうか。

鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、65頁。)

  文学が絶対に必要だと言い切ること。その覚悟が自分にはまだ足りないのではないかと思った次第。

 

 昨日に続いてクロ・ペルガグ Klô Pelgag の『あばら骨の星』(2016) より、"Samedi soir à la violence"「凶暴サタデーナイト」(という邦題)。

www.youtube.com

S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si ta mémoire se noie
Sauve-moi, sauve-moi
S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si la lumière te voit
Sauve-toi, sauve-toi
("Samedi soir à la violence")
 
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしもあなたの記憶が溺れてしまっても
私を助けて、私を助けて
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしも光があなたを見たら
逃げ出して、逃げ出して
(「凶暴サタデーナイト」)

『ファントマ』書評/クロ・ペルガグ「磁性流体の花」

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 ご縁あって『図書新聞』第3321号(2017年10月7日)に、ピエール・スヴェストル、マルセル・アラン『ファントマ』、赤塚敬子訳、風濤社、2017年の書評を書かせていただく。せっかくなので、冒頭の2段落を引用。

犯罪大衆小説の古典、本邦初の完訳

シュルレアリストたちを魅了したベル・エポックの怪人

 

 ファントマとは、1911年から13年にかけて、二人の共著者がフランスで発表した大衆犯罪小説(全32巻)の主人公。次々に強盗や殺人を行う冷血無情の大悪党は、その名が「ファントーム(幽霊)」からの造語であるように、神出鬼没、変装によって様々な人物になりすます。辣腕のジューヴ警部と新聞記者ジェローム・ファンドールがこの悪漢を追い詰めるが、ファントマは最後には身をかわし、物語は次巻へと続いてゆく。それが『ファントマ』シリーズの大筋だ。本書はシリーズ第1巻の初の完訳。誕生から百年を経て、この名だたる犯罪王の真の姿を日本でも確認できるようになったことは、古典的な探偵小説の愛好家にとって嬉しいニュースである。

 物語は殺人事件で幕を開ける。場所はフランス南部の地方都市。真夜中、閉ざされた屋敷の中でラングリュヌ侯爵夫人が殺害される。犯人はいつ、どこから来て、どこへ消えたのか。一方、その場に偶然居合わせたランベール親子。父エチエンヌは、息子シャルルが狂気に駆られて殺人を犯したのではないかと疑う。父は息子を問い詰めた後、二人そろって姿をくらます。親子はどこへ消えたのか、そして息子は本当に殺人犯なのか。この不可解な事件の調査に訪れたジューヴ警部は、そこにファントマの影を感知するが……。

 ちなみにフランス人は「ファントマス」と語末の s を発音するのが普通らしいが、それが何故なのかよく分からない。ま、それはともかく、アルセーヌ・リュパンやジゴマと同時代に大いに流行したこの犯罪小説が、日本でもその名を広く知られるようになってほしいと思う。

 

 クロ・ペルガグ Klô Pelgag の2016年のアルバムL'Étoile thoracique 『あばら骨の星』より、"Les Ferrofluides-fleurs" 「磁性流体の花」(という邦題であるらしい)。

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Les ferrofluides-fleurs

Poussent au milieu des champs magnétiques

Les ferrofluides-fleurs

Germent au cœur des idées érotiques

("Les ferrofluides-fleurs")

 

磁性流体の花は

磁場の真ん中に生える

磁性流体の花は

エロチックな考えの中心で芽生える

(「磁性流体の花」)

 まったく訳が分からなくて素晴らしいなあ。