えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『宝石/遺産』/クリスチーヌ&ザ・クイーンズ「歩く人」

『宝石/遺産』表紙

 モーパッサン『宝石/遺産 モーパッサン傑作選』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2018年

が11月に刊行される。『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』に続く、モーパッサン短編集の2冊目だ。つい、1冊目は内容が渋すぎるのではないかなどと言ってしまったが、はたして今回はどうだろうか。収録作は次の6作。

「宝石」

「遺産」

「車中にて」

「難破船」

「パラン氏」

「悪魔」

 表題作「宝石」は奇しくも、私も『ふらんす』10月号、11月号で取り上げた作品。これは新潮文庫2巻やちくま文庫(今年品切れたらしく、増刷をはげしく希望中)にも収録されている作品だが、看板作として選ばれたもの。それ以外は1巻目で述べられていた方針どうりに、巷に流布する文庫本に収録されていなかったものから採られている。

 が、しかし巻の中心をなす2つの中編「遺産」(1884年)と「パラン氏」(1885年)は、中期モーパッサンの特質がよく出た代表的な作品のうちに入るものといってよい。加えて笑劇「車中にて」およびノルマンディーものの「悪魔」、対比的にロマンチックな情景の描かれる「難破船」という組み合わせも、バランスのとてもよい選択と言えるだろう。それぞれの作品についてはまた別個に詳しく語ってみたいと思うのでここでは割愛するけれど、モーパッサン初心者にもお勧めできる内容といえるのではないかと思う。

 なかでも「遺産」は、読者の好き嫌いは大きく分かれるかもしれないが、このような作品を書くことができたのはモーパッサン以外にいないという意味で、実に彼らしい作品に違いない。つまるところ、モーパッサンのなしえた発見とは、卑俗な事象の内にこそ現代人のドラマは胚胎しうるということであり、それがトリビアであればあるだけ、当人には悲劇、傍目には喜劇という効果が増幅する。読者としては笑うよりないが、それが我が身にふりかかれば決して笑えるものではないだけに、笑いのうちにもなにやら苦いものが忍び込む。「遺産」や「パラン氏」は、人生というものの救いのなさ、人間であることの哀れさをしみじみと感じさせる、そういう作品である。

 これは余計な注釈かもしれないが、「遺産」から「パラン氏」への間には微妙な変化が存在しているように見受けられる。『ベラミ』(1885)から『ピエールとジャン』(1888)への変化、つまり人物を外面から描く「客観的」手法から、内面の心境の変化を辿る「心理小説」への移行を、すでにこの2作の中編のうちに見て取ることができるだろう。

 なお「夫は妻の秘密を知らない」という帯の惹句は、直接には「宝石」を指すものだろうが、これは「パラン氏」にも十分にあてはまる(「遺産」の場合にはどうだろうか)。一番近くにいる者であっても「他者」のことを本当に知ることはできない。それは確かに、モーパッサンの基本的な人間認識の構成要素の一つだろう。

 ところで、最終巻の内容は果たしてどうなるだろうか。ここでひそかに予測をしてみるなら、最大のポイントは「オルラ」(決定稿)を入れるかどうかだろう。「ロックの娘」、「オリーヴ畑」の後期中編2作が恐らくは選ばれるだろうか。難しいのは「蠅」とか「あだ花」で、モーパッサン的には大事なのだけれど、今時の読者向けと言えるかどうか……、とまあこれくらいにしておこう。なにはともあれ、無事の刊行を祈っています。

 

 クリスことクリスチーヌ&ザ・クイーンズ Christine & The Queens のアルバム Chris (2018) より、「歩く人」"La Marcheuse"。

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J’vais marcher très longtemps

Et je m’en vais trouver les poings qui redessinent

J’vais chercher éhontément

Les coups portés sur moi

La violence facile

 

J’vais marcher tout le temps

Et je m’en vais forcer les regards agressifs

J’vais toujours au-devant

Il me tarde de trouver

La violence facile

("La Marcheuse")

 

わたしはずっと長く歩いていく

合図をする拳を見つけにいくだろう

恥知らずにも私は探し求める

私に向けられる打撃を

簡単な暴力を

 

私はずっと歩いていく

攻撃的な視線を相手にするだろう

私はいつも迎えにいく

見つけるのが待ち遠しい

簡単な暴力を

(「歩く人」)

『エマは星の夢を見る』/ジュリエット・アルマネ「アレクサンドル」

『エマは星の夢を見る』表紙

 これはBDではなく漫画だけれど。

 Emmanuelle Maisonneuve / Julia Pavlowitch 原作、高浜寛『エマは星の夢を見る』、講談社、モーニングKC、2017年

 エマニュエル・メゾンヌーヴさんは、あのミシュランガイドの調査員を務めていて、本作は彼女の実体験を基にした物語である。作中の主人公もエマことエマニュエルで、彼女がミシュランに勤めることになってから、研修を経て一人前の調査員になるまでが描かれている。

 実体験を踏まえているだけにさすがにそのディテールの詳しさは見事なもので、こんなに打ち明けてしまっていいのかしらというぐらいに、ミシュラン調査員の仕事はこのようなものかと納得させられるのだけれど、その仕事は実際のところ相当にハードで、年中出張で家庭を持つことは大変で、女性には難しい仕事ですよとエマは再三警告を受けるほどである(本当にフランスの話ですかと目を疑ってしまう)。調査の日には一日に何軒も回らねばならずかなり忙しいようであるし、加えて審査されるレストラン側の実情が分かってくるにつれ、一方的に「格付け」することの責任の重さをエマは痛感することになる。

 それでも初めての審査会をどうにか乗り切るところまでが描かれているのだけれど、その過程でエマは自分の仕事の意味をより深く理解し、また自分自身の生き方についての自覚も新たにするに至る。その意味で、この作品は「仕事の中で成長を遂げる」というこの種の物語の王道をしっかり踏まえていると言え、読後感はいたって爽やかなものだ。結論としては、私には逆立ちしても務まらないお仕事であるし、正直さほどうらやましいとも思わないけれど、それはそれ。有名なミシュランガイドの内幕が知れるのは、なかなか興味深いことでありました。

 

 ジュリエット・アルマネ Juliette Armanet の「アレクサンドル」"Alexandre"。美しいピアノの弾き語りです。

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T’es mon blasphème

Ma plus belle insomnie

Mais te dire je t’aime

Je sais, m’est interdit

 

T’as beau être odieux

Tu es mon Dieu

("Alexandre")

 

あなたは私の冒涜の言葉

私の一番美しい不眠症

でもあなたに愛してると言うのは

知っているの、私には禁じられていると

 

あなたは醜くても無駄よ

あなたは私の神だから

(「アレクサンドル」)

BD『バンド・デシネ 異邦人』/ジュリエット・アルマネ「インディアン」

『バンド・デシネ 異邦人』表紙

 アルベール・カミュの『異邦人』。有名だし、そんなに厚くないし、と思って気楽に手に取ると、前半はなんだかけっこう退屈だし、後半はなんだか難しく、なんだか訳が分からないまま終わるんだけど、なんだか大事なことが書いてあるような気はする、という「なんだか」だらけの厄介な代物ではあるまいか(個人的感想です)。と、そんなような憂わしい悩みを抱える人にお勧めしたいのは、

 野崎歓カミュ 「よそもの」きみの友だち』、みすず書房、「理想の教室」、2006年

であるけれども、今日はその話ではなく、今年の6月に出たBD版の『異邦人』について。

 ジャック・フェランデズ作・絵、『バンド・デシネ 異邦人』、青柳悦子訳、彩流社、2018年

 ジャック・フェランデズ Jacques Ferrandez は1955年、アルジェリア生まれ、代表作は全10巻からなる『オリエント画帖』Carnets d'Orient という大作である。これは、1830年代から1950年代までのアルジェリアを数世代にわたって点描風に描いた「第一部」Premier cycle と、1950年代の独立戦争を重厚に描く「第二部」Second cycle からなっており、植民地アルジェリアについての一大絵巻として知られ、すでに評価も高い。その後、フェルナンデズは、同じアルジェリア出身の作家カミュの作品のBD化に取り組み、『客』(2009)、『異邦人』(2013)、『最初の人間』(2017)が発表されている。

 この手の作品を評価するのはいつも難しい。ともあれ、BDは一気に読めるので話の全体が大きく掴みやすいということは確かな利点で、さらにこれは「訳者あとがき」に書かれている通りだけれど、この物語が1930年代後半のアルジェを舞台にしているという事実が、フェルナンデズの端正で綺麗な水彩画によって実に明確かつ鮮明に理解できるということが、原作を読んだことのある読者にとっても新鮮な驚きであるだろう。確かに作者は「この物語を現実の時空間のなかに置き直し、作品に新たな次元を与え」(「訳者あとがき」、147頁)ている。無駄のない禁欲的な原作にあえて血肉をそなえさせることによって、物語がしっかりと地に足をつけて進んで行くようになったとでも言えるだろうか。また、当然の如く顔をもった人物として描かれるムルソーが、一見したところ他の人物となんら変わらない同じ人間であるということを、しみじみ納得させてくれるという効果もあるかもしれない。いずれにしても『異邦人』は噛み砕くのに手間を必要とする晦渋な作品であることには変わりがないけれど、丁寧な時代考証と揺るぎない技能によってまとめられたこのBD版『異邦人』は、原作への入門編にも、既読者が改めて作品に立ち返るよすがにもなり、一読は決して無意味ではないと思う。

 それから古典のBD化作品の翻訳が今後も出るといいなと思うのだけれど、モーパッサンのをどこかの出版社で出してくれないだろうか。翻訳はいつでも喜んで承りますが。

 

 本日もジュリエット・アルマネ、今日は「インディアン」"L'Indien"。これはとっても分かりやすい歌詞だこと。

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C’est lui

L’Amour de ma vie

Je sais que c’est lui

Tout me le dit

 

En lui

Tout est infini

Le jour comme la nuit

Je suis à lui

("L'Indien")

 

それは彼

私の人生の〈愛〉

私には分かる 彼だって

すべてがそう告げている

 

彼の内では

すべてが無限

昼も夜も

私は彼のもの

(「インディアン」)

「19世紀における文学と民衆文化」/ジュリエット・アルマネ「愛の欠如」

「19世紀における文学と民衆文化」チラシ

信州大学国際シンポジウム2018「19世紀における文学と民衆文化―フランスを中心として―」 | お知らせ | 信州大学 人文学部

 12月2日に信州大学で開催される国際シンポジウム「19世紀における文学と民衆文化 ―フランスを中心として―」のチラシ(勝手に転載しますがご海容を)をつらつら眺めながら、この業界では稀にしか見られないよく出来たチラシだなあ(本当の話)と感心していたら、これは信州大学の学生さん(青木さん)の製作によるものだと書かれているのに気づく。なるほど、きっと大学で学ばれたことの成果なのでありましょう。そういうのはとても良い話なのではなかろうかと思うと同時に、今時の若者の技術力は素晴らしいなあとしみじみする。まったく非の打ち所のない良いお仕事ではありませんか。もっと正直に言うとたいへん羨ましい。

 ちなみに、使われている絵はルイ・レオポルド・ボワイー Louis-Léopold Boilly (1761-1845) の「無料公演の日、ある桟敷席」"Une loge, un jour de spectacle gratuit" (1830) のものらしい。なるほど。大量におしかけて観客がひしめいているところ、「無料公演」がいかにも庶民にとってのお祭り騒ぎの機会だったことを思わせる。また、シンポの内容にもぴったりの選択だ。右下の男性が下を向いているところが、チラシの構図にぴったりというのも良いですね。

Les loges au théâtre | Histoire et analyse d'images et oeuvres

(こちらのページ(仏語)に、ボワイーの件の絵の解説がある。)

 

 とりたてて落ちもない(シンポに参加できませぬし)まま、本日もジュリエット・アルマネJuliette Armanet のアルバム『恋人』Petite Amie (2017) より、「愛の欠如」"Manque d'amour" を聴くとしよう。ビデオはなんだか変でおかしい。

www.youtube.com

Y'a comme un manque d'amour

Ouais

J'ressens un manque d'amour

Tout autour dans moi, oh

 

Y'a comme un manque d'amour

Ouais

J'ressens un manque d'amour

Tout autour 

("Manque d'amour")

 

愛の欠如みたいなものがあるの

そうよ

愛の欠如を感じるの

周りに、私の中に、ああ

 

愛の欠如みたいなものがあるの

そうよ

愛の欠如を感じるの

周りに

(「愛の欠如」)

『三つの物語』/ジュリエット・アルマネ「独りの愛」

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 今になって改めて『ボヴァリー夫人』を読み直すと、フロベールが自分の登場人物を甘やかさないためにどれだけ必死になっていたかが、しみじみとよく分かる(ような気がする)。彼はエンマやレオンやロドルフやオメーにせっせと「紋切型」をしゃべらせる。そしてエンマを口説くロドルフには農事共進会の賞品授与の台詞をかぶせ、逢引きに待ちきれないレオンには鈍感な守衛をつきまとわせる。お人よしの夫は我知らずにせっせと妻の不倫を準備し、苦しむエンマが救いを求めて教会に行けば物質的なことしか理解できない司祭が待っている。あまつさえは臨終の際にエンマが耳にするのは乞食の歌う俗謡であり、通夜の最中には司祭と反教権主義のブルジョアが喧嘩の挙句にいびきをかいて眠る。かように全編いたるところ、作者のアイロニーが滲み出ているのであるが、そのようにして自己の内の「甘さ」を徹底的に批判することによって、フロベールは成熟へと達し、一人の作家が誕生したのだと言えるだろう。

 フロベールはその後も『感情教育』、『ブヴァールとペキュシェ』という現代物においては、持ち前のアイロニーを前面に押し出すわけだが、いかにもそのような作品の執筆は作者にとって苦労多いものだったに違いない。1875年、心労たたって彼は『ブヴァール』の執筆を一時中断するのだが、その時、「文をつくるということが自分にまだできるのかどうかを知るために」書き始められたのが短編「聖ジュリアン伝」であり、五ヶ月でこれが仕上がると、続けて「素朴なひと」、「ヘロディアス」が執筆され、1877年には単行本にまとめられ、『三つの物語』というタイトルがつけられた。いずれもキリスト教と関連する主題を取り上げ、三作によって現代・中世・古代の通史をなす短編集となっている。

 特徴的なのは、これがいわば「気晴らし」のために書き始められたこともあってか、ここではフロベール特有のアイロニーが薄まり(皆無ではない)、その分、登場人物に寄せる作者の共感(これも以前の作品に皆無だったわけではないのだが)が感じられ、双方のバランスがよく保たれている点、他の長編に比べてずっと「読みやすい」作品となっている。その意味で、フロベール入門には『ボヴァリー夫人』よりも『三つの物語』のほうがはるかにうってつけだと思われるのだけれど、これまで簡単に入手できる翻訳は岩波文庫山田九朗訳のみで、しかしこれは旧字体の難物であり、その他には懐かしの福武文庫に太田浩一訳があったのだが、言うまでもなくこれも姿を消して久しい状態だったのである。そこにこのたび、

 フローベール『三つの物語』、谷口亜沙子訳、光文社古典新訳文庫、2018年

の新訳が刊行されたことは、フロベール(と私はこだわって綴るけれど)の一ファンとしてことのほか嬉しい出来事だった。しかもその喜びは、実際に本書を手に取ってはるかに倍増することになった次第である。訳文は実に流麗で読みやすく、よく練られたものであることがはっきりと見て取れる。それに加えて、「解説」および「訳書あとがき」が素晴らしいのだが、この手の文章でこれほど感動させられたのはいったいいつの何以来だろうか。

 ここで翻訳者はそれぞれの作品の特徴を丁寧に挙げているが、とりわけ「ヘロディアス」の難解さとそこで賭けられているものについての考察は興味深く、そこから導き出された注釈の方針の説明はたいへん理に適っている。さらに、各作品を結ぶ共通点からフロベールの内に秘められた「もっと徹底して素朴なもの」(256頁)へと話を進めていく展開は見事であり、読み応えがある。これは疑いなく、翻訳という営みを通して原文と、そして作者と深い交流をなしえた人にのみ書ける文であって、そもそもそこまで到達できないなら翻訳とはなんだろうと思わせられる、そんな文章だ。そんな訳者だからこそ、フロベールはしばしば「もっとも決定的な語を避けることによって書く」(275頁)という発見を語ることもできたに違いなく、作品に対して誠実かつ心を込めて接する翻訳者の姿勢に、心から敬意を表したいと思うし、この仕事の価値が広く認められることを強く願わずにいられない。

 それぞれの作品について、この「解説」以上に言えることなど私にはとくにないし、その必要もさして感じない。個人的にはなんといっても「素朴なひと」(山田九朗訳は「まごころ」、太田浩一訳は「純なこころ」)に思い入れが大きく、何度読んでもこれはよい小説だという確信は揺るがない。どう考えてもフロベールは単純素朴な信仰心をもはや抱くことができない「現代人」であったはずだが、そんな彼が、一貫して無欲かつ謙虚に生きるがために、その人生があたかも聖人伝であるかのような、そんな純朴な女性の生涯を語ってみせたのだった。「これは皮肉などではまったくない」と作者自身は述べているが、そんなことはなく、フェリシテが剥製となったオウムのルルーをやがて聖霊と混同し、せっせとオウムを拝む「偶像崇拝」(76頁)を習慣とするに至るあたりに、作者のアイロニーはやはり現れていると言えるだろう。

 けれども、いやだからこそ、あの結末の美しい一文が存在する。現代において聖者伝はありえないから、フェリシテがジュリアンのようにキリストによって救済されるような場面をフロベールは書くことはできなかった。フェリシテが最後に見るのは、だからオウムの幻影でしかない。

 だが少なくともオウム(が象徴する何か)はある。それが「現代の聖者伝」がぎりぎり提示しうる希望だとフロベールは語っているかのようだ。たかがオウム、されどオウム。そのオウムの内に何を見るのかは、読者一人ひとりに委ねられているのだろう。

 帯には「フローベールの最高傑作」とあるが、その言葉には賛同できない。最高傑作の呼び名は、やはり『ボヴァリー夫人』か『感情教育』にこそ(恐らくは前者に)、与えられてしかるべきものだ。だが『三つの物語』は彼が残し得た最も美しい作品であると私は思うし、19世紀フランス文学全体の中でもその美しさは稀なるものであるだろう。

 本当に、心から、この本を手に取る人の一人でも多いことを、そしてフロベールの素晴らしさを知ってもらえることを、一仏文学の徒として願っています。

 

 6年間テレビ局で仕事をした後でデビューした、ジュリエット・アルマネ Juliette Armanet のアルバム『恋人』Petite Amie (2017) より、「独りの愛」"L'Amour en Solitaire"。

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Où es-tu mon alter

Où es-tu mon mégot

Pour moi t'étais ma mère mon père mon rodéo

Je traverse le désert

L'Amour en Solitaire

 

Reviens-moi mon alter

Reviens-moi héros

Je veux retrouver ma terre ma bière et mon tricot

Plus traverser le désert

L'Amour en Solitaire

("L'Amour en Solitaire")

 

あなたはどこなの

もう一人の私は

私にとってあなたは母、父、私のロデオだった

私は砂漠を横断する

独りの愛

 

戻っておいで

もう一人の私のヒーロー

私は見いだしたい、私の土地、ビール、編み物

もう砂漠は横断しない

独りの愛

(「独りの愛」)

「対訳で楽しむモーパッサンの短編」第3回/ジュリア「S.E.X.T.O」

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 『ふらんす』12月号に、「対訳で楽しむモーパッサンの短編(3) ソヴァージュばあさん①」が掲載されました。普仏戦争を題材とした作品です。コラムは「モーパッサンと戦争」、手に取ってご覧いただけましたら有難く存じます。

 

 2018年9月、ミレーヌ・ファルメールとロラン・ブトナのプロデュースによって新人歌手ジュリアJuliaがデビューした。当然のように誰もが、2000年のアリゼAlizéeの再来を期待した訳だけれど、果たしてどうなるのでしょうか。デビュー曲は「S.E.X.T.O」。フランス語では携帯電話のメッセージをtextoと呼ぶが、sextoという造語もある程度まで流通しているみたい。

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S.E.X.T.O

Envoie des bulles

De l'altitude

Tu sais je suis l'eau

Quand tes mots s’échappent

Brisent la glace

 

S.E.X.T.O

Envoie ce soir les particules

Et là mon

Septième ciel est haut

C'est chiquissime

C'est mon sexto

(Julia, "S.E.X.T.O")

 

S.E.X.T.O

高い所から

吹き出しを送って

ねえ、私は水よ

あなたの言葉が逃げ出して

氷を砕く時

 

S.E.X.T.O

今晩、言葉を送って

あそこ、私の

第7天は高くにある

それは最高

それは私のセクスト

(ジュリア「S.E.X.T.O」)

 

 つい、アリゼ「わたし ロリータ」"Moi... Lolita" を見直してしまいます。

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C'est pas ma faute

Et quand je donne ma langue au chat

Je vois les autres

Tout prêts à se jeter sur moi

C'est pas ma faute à moi

Si j'entends tout autour de moi

Hello, helli, t'es A (L.O.L.I.T.A.)

Moi Lolita

("Moi... Lolita")

 

悪いのは私じゃない

私がさじを投げるとき

私は見るわ みんなが

私に飛びかかろうとするのを

悪いのは私じゃない

 私の周りで言うのが聞こえたとしても

ヘロー、ヘリー、君はAだね

わたしはロリータ

(「わたし ロリータ」)

 

「対訳で楽しむモーパッサンの短編」第2回/ミレーヌ・ファルメール「忘れないで」

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ふらんす』11月号に、「対訳で楽しむモーパッサンの短編 (2) 宝石②」、順調に掲載されました。今月が完結編になります。コラムは「「宝石」と「首飾り」」。手に取ってご笑覧頂けましたら嬉しく思います。

 

 我らがミレーヌ・ファルメール Mylène Farmer の新アルバム『不服従Désobéissance が発表される。めでたい。

 先行シングル、アメリカ人の歌手LPとのデュエット「忘れないで」"N'oublie pas"。ビデオクリップの監督はなんとロラン・ブトナ Laurent Boutonnat、撮影はアイスランドで行われた由。

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N'oublie pas

Conduite par une étoile

Jamais

N'oublie pas

I promise when you are

 

Un point dans l'univers

It's a love it's everywhere

Jamais

N'oublie pas

C'est moi

Oh Oh Oh

Ouh Ouh Ouh

("N'oublie pas")

 

忘れないで

星に導かれて

決して

忘れないで

I promise when you are

 

世界の中の一点

It's a love it's everywhere

決して

忘れないで

それは私

Oh Oh Oh

Ouh Ouh Ouh

(「忘れないで」)