えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『いまこそ、希望を』/ヴィアネ「ヴェロニカ」

『いまこそ、希望を』

 初めにお断りしておけば、以下はまったく門外漢の個人的感想です。

 ジャン=ポール・サルトル、ベニイ・レヴィ『いまこそ、希望を』、海老坂武訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 サルトルは晩年、失明し、自身の手による執筆が不可能になった。そこで秘書を務めるベニイ・レヴィイとの対談を通して、共同で「倫理」に関する論考を執筆することを計画していた。本書は、1980年に雑誌に掲載された二人による対談であるが、発表直後にサルトルは亡くなる。結果として、ここに語られた言葉は彼の「遺言」とも呼べるものになった。

 あくまで私の理解した範囲で、サルトルの言っていること(の一部)を要約してみれば、おおよそ以下のようになる。

 人間は、その定義において共同で生きる存在であり、そうである以上、そこには「倫理」があり(「倫理なるものが本当に他者との関係における人間たちの生き方に過ぎなくなる瞬間を、見いだすということ」(118頁))、そして「友愛」がなければならない。

社会というものを、政治よりもいっそう根本的な人間相互の絆から生ずるものとみなすなら、そのときは、人々は友愛(兄弟愛)関係というある種の根本的な関係を持っているに違いないし、持ちうるし、持っている、とわたしは考える。

サルトル・レヴィ『いまこそ、希望を』、海老坂武訳、光文社古典新訳文庫、2019年、82頁)

 しかるに、問題は、我々は、まだその定義にふさわしい「人間」になってはいないということにある(「われわれは、人間として共に生きることを求め、人間になることを求めているのだ」(45頁))。とはいえ、人間性は、いまだ人間以前である我々の内に萌芽として存在している。だから「友愛」を、「倫理」を、言葉によって明らかにしなければならず、その先に「希望」があるはずだ(この対談は「希望」についての話から始まり、「希望」を語って閉じられる)。本当は、もっと具体的な政治の話、あるいはユダヤ人について色々と語られているのだけれど、そうした部分は手に余るので割愛。

 こうしてみると、サルトルマルクスの思想はある一点で共通していると言えるかもしれない。つまり「革命」を実現させるためには、人間性そのものが変革されなければいけない、と考える点において。そして、そのいかにも実現不可能な事象の実現を未来に託すというポジティブな姿勢において。

 ところで、私の敬愛するフロベールモーパッサン系統(お好みであれば、ショーペンハウアーの名を加えてもよい)においては、人間は「永遠に愚かで、永遠に悲惨」である、という考えが根本認識にある。そうである以上、未来における変革などは考えられないだろう。このような見方は確かに身も蓋もないけれど、それによって、人生を生きてゆく上での一つの支えのようなものは得られる(腹をくくるとでも言いましょうか)、と私は思ってきたし、今も思っている。そうではあるけれど、しかしまあ、それで元気が出るかと言われれば、そこのところは、なんとも言いがたい。

 つまるところ、現状のままでは駄目だという認識において、あるいはマルクスサルトル系統(は、どこに続くのか?)も、根本的なところでは同じと言えるのかもしれないけれど、何はともあれ、読んでいて元気が出るのは、明らかにマルクス(類的人間)、サルトル(全体的人間)の側であるに違いない。そこに、孤独を好む文学者と、社会に目を向ける活動家との、根本的な姿勢の相違のようなものを感じずにはいられない。

 私には、サルトルの晩年の思想が、哲学史において、あるいは今日において、どのような価値を持つのか判定できないし、そうしようとする気もさらさらない。ただ、未来が混沌として不透明で(いつの時代もそうであるに違いないけれど)、希望を持つことが難しいと思われる、この21世紀初頭の日本において、75歳にして最後まで「希望」を語ろうとしつづけたサルトルの姿勢には、なんだか眩いものを感じてしまう。

 正直に言えば、それは現実から切り離された老人の妄想の類ではなかったかと、思わないわけではない。それでもしかし、一世を風靡した哲学者が、最後に残した「希望」の言葉を切り捨てて、退けてしまうことには、少なくともためらいを覚える。

 そして、そのためらいの内に、自分がまだ希望を捨てていないことを知らされるように思うのだ。

 

 Vianney ヴィアネのアルバム『君へのラヴソング』より、"Veronica"「ヴェロニカ」。

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Parmi ceux qui crient

Qui t'embrassent

Et t'acclament

Il y a celui qui

Rêvasse et qui s'acharne

Dans tes duos, ce gars

Je veux que ce soit moi...

 

Veronica

("Veronica")

 

声をあげて

君にキスを送って

喝采する奴らには

こんなのもいる

夢見てる奴、妄想する奴

君とデュエットしてる、あいつ

ぼくがあいつだったらいいのに……

 

ヴェロニカ

(「ヴェロニカ」翻訳:丸山有美)

『ソヴィエト旅行記』/ヴィアネ「大きらい」

『ソヴィエト旅行記』


 こんな本まで出るとは、いったい今はいつなんだろう、という不思議な気分を抱きながら本書を手に取った。

 ジッド『ソヴィエト旅行記』、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 1936年、66歳になるジッドは2ヶ月かけてソヴィエトを旅行し、帰国後に『旅行記』を発表、スターリン体制への批判を表明した。これがフランスの、特に左翼陣営から批判を浴びることになり、翌年、ジッドは『ソヴィエト旅行記修正』において、批判に対する反論を行う。本書は、この両作品を合わせた新訳である。

 旅立つ以前のジッドはソヴィエトに対して大きな希望を抱いていたが、実際に現地を見て回る中で、その期待は失望へと変わる。極度の貧困があちこちに見られること。共産主義の理念にもかかわらず、明らかに貧富、階級の差が存在していること。人民は実情を知らされず、自分たちが一番だという自己満足に浸っていること。コンフォルミスム(順応主義)がはびこり、誰も体制に対して批判ができないこと。つまりはスターリン一人の独裁国家であること……。

今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。彼らが望み、要求しているのは、ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。彼らが獲得しようとしているのは、この称賛が嫌々ながらではなく、心からの、いやもっと言えば熱狂的なものであることである。そして最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、ほかのどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと思う。

(ジッド『ソヴィエト紀行』、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2019年、85頁) 

  ジッドの口調は決して激しいものではなく、むしろ慇懃に言葉を尽くして語っているという印象である。彼がここに述べていることは、こんにち我々がソ連に対して抱いている一般的なイメージとほとんど相違がないように見えるし、だから、その批判はしごく真っ当で、常識的であるように思える。

 にもかかわらず、発表当時、多くの人がジッドを裏切り者として「罵倒」した。なかでもロマン・ロランからの「悪罵」(160頁)はこたえたと、『修正』の冒頭に書かれているが、そうした歴史的事実のほうに、むしろ、今の読者は驚かされるのではないだろうか。

 ロシア革命以降、ヨーロッパにおける左翼の人々にとって、ソヴィエト連邦は、人類の理想が今や実現せんとしている憧れの国だったし、20年代から30年代には、実際に共産党に入党する芸術家も少なくなかった。それは歴史的事実であるのだが、今となっては、そうした事情を実感をともなって理解することはなかなか難しい。なぜそんなことが素朴に(としか見えない仕方で)信じられたのか、と疑問に思われて仕方ないのだ。

 その意味で、こんにち本書を読むということは、この作品が書かれた背景込みで、20世紀前半という時代を振り返ることを意味するだろう。訳者による丁寧な「まえがき」と「解説」および「あとがき」は、そのために不可欠といってよいものであり、とても貴重である。そのお蔭で、1930年代という時代の「空気」を感じ取ることができるように思う。

 ソ連への旅行は最上級の接待旅行であり、行く先々で歓迎され、すべての費用はソ連持ちで、あちこちで豪勢な宴会が開かれたということを、ジッドは『修正』において打ち明けている。にもかかわらず、歯に衣着せずに率直にソ連の実情を描いてみせた彼の姿勢は、なんと言っても称賛に値するだろう。彼はイデオロギー固執することがなかった。特定の党派に肩入れせずに、自身の独立独歩の立場を貫いたのだ。

 私にとって何よりも優先されるべき党など存在しない。どんな党であれ、私は党そのものよりも真実の方を好む。少しでも嘘が入り込んでくると、私は居心地が悪くなる。私の役目はその嘘を告発することだ。私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた同時に党から離れる。

(同前、243頁) 

  思想よりも人の側に、強者よりも弱者の側につく、その揺るぎない姿勢のゆえに、ジッドは誠実な文学者であり、そして正当な人文主義者でありえている。そのように言ってよいだろう。16世紀、人文主義の祖エラスムスは、寛容の姿勢を貫くことにより、カトリックからもプロテスタントからも批判された。ジッドもまた、『コンゴ紀行』における植民地主義批判によって右から、ソ連批判によって左から攻撃された。人文主義者は多くの者から煙たがられる宿命にあり、彼の声は、その時代にあっては必ずしも大きな力を持たないかもしれない。

 だがそれでも、時代を超えて耳を傾ける価値があるのは、彼の言葉のほうなのだ。『ソヴィエト旅行記』の新訳は、だから出るべくして世に出たのだと、おのれの不明を恥じつつ、そのように言いたい。

 私はジッドは大の苦手であり、彼の小説を読み返す気はさらさらない。それでも、『ソヴィエト旅行記』は読んでよかったと率直に思うし、作家の真摯な姿勢に、静かに敬意を払いたいと思う。

 

 ふと思い出したように Vianney ヴィアネを聴く。2014年の "Je te déteste"「大きらい」。

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 Quand j'y pense

Rien ne la panse

La béance que tu as laissée

C'est vrai que quand j'y pense

Faut que j'avance

La séance est terminée je sais, alors...

 

Alors je laisse aller les doigts sur mon clavier

Je viens gifler mes cordes plutôt que ton fessier

Je crie de tout mon être sur un morceau de bois

Plutôt que dans tes oreilles qui n'écoutent que toi

D E T E S T E, je te déteste

D E T E S T E

("Je te déteste")

 

考えてるときは

手の施しようがない

君が残したぽっかり風穴

そうだ、考えてるときこそ

前に進まなきゃ

堂々巡りは終わり、だよね……

 

おもむくまま鍵盤に指を走らせればいい

和音を叩く、君のお尻を叩く代わりに

木っぱにぼくのすべてをのせて叫ぶんだ

自分のことしか聞いてない君の耳に向かって叫ぶ代わりに

ダイキライ、君なんか大きらい

ダイキライ

(「大きらい」翻訳:丸山有美)

鹿島茂選「フランス文学の古典名作20冊」/ZAZ「小娘」

『古典名作 本の雑誌』

 フランス文学入門者向けの作品リスト、のようなものを作りたい、としばらく前から思いつつもまだ果たせないでいる。理由はいろいろある。あくまで王道を行くなら古いところを中心にして、あっという間に20も30も書名が上がるが、それでは今時の入門向けとしては硬派にすぎよう。私はクラシックな人間(ものは言いよう)だから、フランス文学の金字塔はラシーヌ『フェードル』に尽きる、と思っていたりするのだが、翻訳書を前提とした入門者向け、という条件では、こういうのも入れる訳にはいくまい。

 一方では身も蓋もなく、「読んでない」という壁も立ちはだかる。とりわけ私は20世紀のものに弱い。もちろん、読んでいなくたってリストぐらいは作れる。そのへんの理路については、

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』、大浦康介訳、ちくま学芸文庫、2016年

に詳しいが、しかし今は、文学の授業をいかにはったりで乗り切るか、という話ではないのであって、つまり見栄を張っても仕方ない。しかし、読んでないものは入れないとなると、当然ながら選択肢がかなり狭められる。それを避けるためには読むしかないのだが、そんなことを言っていてはいつまで経ってもリストなど作れまい。

 とか、ぐだぐだ言っているからいけないので、いずれ何とかしたいものだと思うのだけれど、それはそれとして、はて、世にそういうリストはすでに存在しないものだろうかと思いもする。きっと色々あるに違いない。

 そういう状況の中、すでに旧聞に属するかもしれないが、

本の雑誌編集部編『古典名作 本の雑誌』、本の雑誌社、別冊本の雑誌19、2017年

が刊行された時には、おお、これぞ私の探していたものと欣喜雀躍の気分であった。

 さて、その中のフランス編を担当しているのは鹿島茂先生である。それはよい。しかしながら、そのタイトルが「寝取られ、逸脱、フェティシズム。性にあけすけな豊潤文学選」とあるのは、一体どうしたことなのか。「おもに、ラブレーの先輩や後輩や末裔たちの作品から選んだゴーロワ(性にあけすけな)文学全集である」(17頁)って、うーむ、今さらにそこを突っ込んできますか、と思ってしまうセレクションではあるまいか。

 しかしさすがは鹿島先生と言うべきなのは、そのリストの中身の濃さである。艶笑譚といえばモーパッサンも幾つも書いているが、そんな平凡なものはこのリストには挙がっていない。ぜひその見事さを多くの方に知っていただきたいと思うので、以下に引用させて頂きます。書籍に掲載のものに、出版年を追加しました。

 さあ、あなたは幾つご存じでしょうか?

鹿島茂選「フランス文学の古典名作20冊」

 

1. ギヨーム・ド・ロリスジャン・ド・マン『薔薇物語』、篠田勝英訳、平凡社、1996年

2. ギヨーム・ブーシェ『夜話集(抄)』、鍛冶義弘訳、『フランス・ルネサンス文学集2 笑いと涙と』所収、白水社、2016年

3. フランソワ・ド・ロセ『悲劇的物語(抄)』、平野隆文訳、『フランス・ルネサンス文学集2 笑いと涙と』所収、白水社、2016年

4. ベロアルド・ド・ヴェルヴィル『出世の道』、三宅一郎訳、作品社、1985年

5. シャルル・ソレル『フランシヨン 滑稽物語』、渡辺明正訳、国書刊行会、2003年

6. ポール・スカロン『滑稽旅役者物語』、渡辺明正訳、国書刊行会、1993年

7. ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌの小話』、三野博司・木谷吉克・寺田光徳訳、現代教養文庫、1987年

8. ル・サージュ『ジル・ブラース物語(全4巻)』、杉捷夫訳、岩波文庫、1953-1954年

9. レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『ムッシュー・ニコラの幼少時代』、佐分純一訳、講談社世界文学全集16、1977年

10. ドゥニ・ディドロ『お喋りな宝石』、新庄嘉章訳、有光書房、1969年

11. クレビヨン・フィス『ソファー』、伊吹武彦訳、世界文学社、1949年

12. コント・ド・ミラボオ『フランス一の伊達男』、松村義雄訳、現代文化社、1952年

13. バルザック『艶笑滑稽譚(全3輯)』、石井晴一訳、岩波文庫、2012-2013年

14. アルフレッド・ド・ミュッセ『ガミアニ』、須賀慣訳、晶文社アフロディーテ双書、2003年

15. ピエール・ルイス『女と人形』、生田耕作訳、晶文社アフロディーテ双書、2003年

16. エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵『夢の操縦法』、立木鷹志訳、国書刊行会、2012年

17. レーモン・ルーセル『アフリカの印象』、岡谷公二訳、白水社、2007年

18. ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅(上下)』、生田耕作訳、中公文庫、2003年

19. ミシェル・ウエルベック素粒子』、野崎歓訳、ちくま文庫、2006年

20. カトリーヌ・ミエ『カトリーヌ・Mの正直な告白』、高橋利絵子訳、早川書房、2001年

(『古典名作 本の雑誌』、本の雑誌社、別冊本の雑誌19、2017年、18頁)

 どうでもいいが、このうち今現在、私が所持している(読んだ、ではない)のは4, 7, 8, 13, 14, 18, 19 の7作品のみで、半分にも満たない。まことに恐れ入るばかり。

 まさしく「へー、こんな本まで!」(17頁)訳されているのか、と唸ってしまう「翻訳大国」日本の面目躍如(なのか)なこのリスト。これはかなり上級編ではないの、と思わなくもないが、ぜひこのリストをご参考に、かくも豊穣なフランス文学の、めくるめくエロスの世界(?)に分け入られる方のいらっしゃることを期待したい(と、書いてはみたが、そんなことを期待しなくてもいいか)。

 

 脈略は一切なく、ZAZザーズ、本日も2013年の Recto verso より、"Gamine"「小娘」。

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Ça me fait mal

Ça me brûle à l'intérieur

C'est pas normal

Et j'entends plus mon cœur

C'est des histoires

Pour faire pleurer les filles

Je n'ose y croire

Je ne suis plus une gamine

("Gamine")

 

苦しいわ

内側から焼けるよう

普通じゃないわ

心臓の鼓動も聞こえないの

そんなの作り話よ

女子を泣かすためのね

信じられないわ

もう私は小娘じゃない

(「小娘」翻訳:人見有羽子)

『蘭学事始』/ZAZ「コム・シ、コム・サ」

『蘭学事始』

 昨日、久し振りに大阪でマラルメの読書会に参加。テオドール・ド・バンヴィルについての一文を読む。

 その朝、たまたまテレビで杉田玄白の番組を見た。

 杉田玄白前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと決意し、顔を合わせてはオランダ語の意味をあれこれと議論し、これを「会読」と呼んだ。テレビの解説によれば、それまで漢方医学においては、一子相伝で師から弟子に奥義が伝えられていたから、そんな風に本を囲んで議論するというようなことはなかった。しかるに杉田玄白以降、「会読」が蘭学の基本の形となっていった、と大略そういう話であった。

 そこで私、なるほどと膝を打ったのである。この「会読」の伝統が、たとえばあの『福翁自伝』で語られる伝説の適塾を経て、やがて蘭学から英仏独学に移っても途絶える事なく、「読書会」の名の下に現在にまで続いている。うむ。つまり日本で「原書講読」を行っている我々は皆、杉田玄白の直系の弟子であって、250年に及ぶ伝統を受け継いでいるということなのだ。

 もちろん、こういうのは一種のフィクションであって、直接の伝播関係はないかもしれないし、途中に断絶もあったかもしれない。しかしまあ、伝統とは「我こそは受け継げり」と思う者のいるところにのみ存在するのであり、人間は、自分を越えた大義を担っていると思いこむ時に元気の出る生き物だ。だからまあ「弟子」を僭称しても、きっと罰は当たるまい。

 というわけで、早速に『蘭学事始』を開いてみると、実に良いことが書いてある。漢字を出すのが面倒なので原文を割愛し、物足りないが現代語訳のみを引用。

 過ぎ去った ことをふりかえってみると、まだ『解体新書』が完成にいたらない前のことであるが、このように勉励して二、三年も過ぎて、ようやく、その事情も理解できるようになるにしたがい、しだいに砂糖きびをかみしめるように、その甘味がわかるようになってきた。これによって昔からの誤りもわかり、そのすじみちを確実に理解できるようになっていくことが楽しく、会合の日は、前の日から夜の明けるのを待ちかねて、ちょうど女子供が祭見物にゆくような気持ちがした。

杉田玄白蘭学事始』、片桐一男全訳注、講談社学術文庫、2000年、49頁)

  砂糖きびを噛みしめるように味わった、という比喩も素敵(にしてよく分かる)が、「会期の期日は、前日より夜の明るを待兼、児女子の祭り見に行くの心地せり」(114頁)という一文が、しみじみ微笑ましい。

 知の欲望に身を焦がすような思いをすることがなくなったら、そこで学問は終わってしまう。初心を思い出すべく、「知りたい、分かりたい」という情熱に駆られていた玄白たちの、その興奮の熱気に遠く思いを馳せた。

 

 わりとしつこくZAZザーズを聴き続ける。これも Recto verso (2013) より、"Comme ci, comme ça"「コム・シ、コム・サ(まあなんとかね)」。

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Je suis comme ci

Et ça me va

Vous ne me changez pas

Je suis comme ça

Et c'est tant pis

Je vis sans vis-à-vis

Comme ci comme ça

Sans interdit

On ne m'empêchera pas

De suivre mon chemin

Et de croire en mes mains

("Comme ci, comme ça")

 

これが私

これがいいの

あなたに私は変えられない

これが私なの

おあいにくさま

人の目なんて気にしてない

まあ なんとかね

しばりもない

じゃましようたって無理

私は私の道を行くんだから

自分の力だけを頼りに

(「コム・シ、コム・サ(まあなんとかね)」人見有羽子翻訳)

『ゴッホ ――最後の3年』/ZAZ「行こう!」

『ゴッホ ――最後の3年』

 これまたフランスではないけれど。

 バーバラ・ストック『ゴッホ ――最後の3年』、川野夏実訳、花伝社、2018年

 文字通り、ゴッホの最後の3年(1888-1890)を描いた、オランダの伝記漫画。つまりパリから南仏へ移って以降、オヴェール・スル・オワーズに至るまで(ただし本当の最期は省略されている)。絵柄はどちらかと言うと単純、素朴なものであるが、その朴訥かつ落ち着いたトーンが、ゴッホの孤独な生涯とよくマッチしている(ように感じられる)。

 ゴッホは随所で写生を行ってゆき、実際に描かれた場所が次々に登場する(作品名が注釈で示されている)。それによって、作品の生まれていく過程を詳しく辿れることが、本作の第一のポイントであろう。彼はたくさんの書簡を残したことでも有名だが、本作では、その文面がたびたび引用されている。手紙による詳細な経過報告、および後の綿密な研究のお蔭で、ゴッホの過ごした日々はかなり詳細に辿ることができる訳だが、本作はそうした資料を元に画家の足跡を丁寧に追っている。さすが「ゴッホ美術館監修」だけのことはある。

 絵は売れず、弟のテオの援助に頼り切りなことを、フィンセントは負担に感じている。借りを返すためには絵を売らなければ(絵が売れなければ)ならず、そのためには、もっと絵がうまくならなければならない。ゴッホは愚直なまでに一途に絵を描き続ける。一方で、アルルの地に芸術家のコロニーを作るという夢を抱き、ゴーギャンを呼び寄せることを考える。この辺りから彼の精神は消耗しはじめているのだが、実際にゴーギャンとの共同生活が始まるに到って、そのストレスがどんどんと高まってゆくことになる。

 なにしろゴッホは一徹であり、ひたすらに自分の芸術の理想を語りつづけるが、ゴーギャンはといえば、基本的に自分のことしか考えておらず、絵が売れて金が入ったらまた南国に行きたいと思っていることを隠さない。二人の性格が相容れるわけはなく(というか、ゴッホと一緒にうまくやっていける人はそういないだろうと思われる)、ゴーギャンはアルルを去ろうとする。ゴッホの精神はついに負荷に耐え切れずに、発作へと至るのだが、この漫画を読んでいると、そうしたゴッホの精神のありようが、実によく、手に取るように理解できる。ここのところが第2のポイントとして挙げられるだろう。問題はゴッホの性格、その極端な理想主義と現実乖離、社会性の欠落にあるには違いないが、それでも、実直かつ一途に思いつめる彼の姿には胸を打たれるし、同情というか共感というかを抱かずに、読み進めることは難しい。

 発作の中で耳を切り落とすという事件のあった後、自ら病院に入り、悲嘆に暮れながら、それでもひたすらに絵を描きつづける姿が、淡々とした筆致で描かれてゆく後半部においては、画家の孤独と寂しさとがひしひしと感じられる。それでも、弟夫婦との触れ合い、そして絵を描くことの内に、安らぎと充足を見いだす姿が描かれている。最後は、「カラスのいる麦畑」の畑が見開き一杯に描かれた、印象的な画像で終わっている。

 ここに描かれるのは「炎の人」的な「狂気の天才」としての画家の姿ではない。そうではなく、実直で、不器用で、寂しがり屋で、ただただ自分の芸術の成長を願い、また信じつづけた、そういう人物としてのゴッホ像である。そう言ってよければ等身大の、一人の芸術家の姿である。作者は、あくまで人間的なゴッホの姿を、思いやりを込めて丁寧に描き出している。

 一読後、ゴッホの絵を、虚心に(というのは、能う限り美術史的なもろもろの概念を追い払って)、ただ自分の芸術に専念した一人の人間の作品として、もう一度見え返したいと思った。

 本書を読めば、ゴッホに対する親しみの増すこと間違いない。

 

 Zaz ザーズ、さらに遡ると、2013年のアルバム Recto verso(日本版は『Zaz~私のうた』)より、"On ira"「行こう!」。これはあれです。êtreと冠詞の終わった時点で、授業で聴いたりします。ここの vous は「あなたたち」ではないか、と思ったり。

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Oh ! Qu’elle est belle notre chance,

Aux mille couleurs de l’être humain,

Mélangées de nos différences,

À la croisée des destins.

 

Vous êtes les étoiles, nous sommes l’univers,

Vous êtes un grain de sable, nous sommes le désert,

Vous êtes mille pages et moi je suis la plume,

Oh, oh, oh, oh ! Oh, oh, oh !

Vous êtes l’horizon et nous sommes la mer,

Vous êtes les saisons, et nous sommes la terre,

Vous êtes le rivage et moi je suis l’écume.

Oh, oh, oh, oh ! Oh, oh, oh !

("On ira")

 

Oh ! なんてラッキーなの

人間の無数の色合い

様々な個性が混じり合い

運命は交差する

 

あなたは星 私たちは宇宙

あなたは砂の粒 私たちは砂漠

あなたは何百ものページ 私は羽ペン

Oh, oh, oh, oh ! Oh, oh, oh !

あなたは水平線 私たちは海

あなたは四季 私たちは大地

あなたは浜辺 私は波の泡

Oh, oh, oh, oh ! Oh, oh, oh !

(「行こう!」翻訳:人見有羽子)

『ジーキル博士とハイド氏』/ZAZ「パリはいつもパリ」

『ジーキル博士とハイド氏』

 『宝島』を読んだら、『ジーキル』に行くのはもう避けられないと言うべきか。

 スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』、村上博基訳、光文社古典新訳文庫、2009年

は、なにしろ有名な作品だ。二重人格という主題は、それだけ人を惹きつけるものがあるのだろう。人間は自分の自由や欲望を制限するのと引き換えにして、社会生活を営んでいる、というのが近代的な人間観であるとすれば、程度の差こそあれ、我々は誰しも自らの欲望の発露に制限をかけている、と考えられる(事実かどうかはともかく、我々は自然とそのように考える傾向にある)。だとすれば、もしも欲望を無制限に解放したら、という夢想は、我々を魅了してやまないだろう。そのような我々の秘めたる願望に形を与えたからこそ、この作品は古典の地位を占めるに至ったに違いない。

 ところで、ハイド氏が何かということは、作品の中で明確に述べられている。

以後わたしがエドワード・ハイドの容姿になると、そばにくる人で、のっけから本能的おびえを見せぬ人はひとりもいなかった。思うにそれは、われわれが日常出会う人間は皆、善と悪の複合体であるのにひきかえ、エドワード・ハイドは人類にひとりしかいない、混じりけなしの純粋な悪だったからだ。

(『ジーキル博士とハイド氏』、110頁)

 「純粋な悪」というのは、いかにも怪しい魅力を放つ言葉ではあるまいか。そこには想像力を刺激する何かが確かに存在する。

 とはいえ、この作品、今読むと多くの人は拍子抜けするのではないだろうか。なにしろ肝心のハイド氏が具体的にやってのけるのは、1)通りでぶつかった少女を「平然と踏んづけ、泣き叫ぶのを路上にのこして立ち去った」(13頁)。2)道を聞いてきたと思しい老人に対し、なぜか激情し、「狂暴な猿のように怒り狂って、倒れた相手を踏みつけ、怒濤の打擲を加えた」(41頁)の、2つだけしかないのである。ハイド氏が夜な夜な他に何をしていたか、具体的には語られない。確かに殺人は犯しているのだけれど、「純粋な悪」というにはいささか単純すぎ、インパクトに欠けるだろう。

 原著刊行は1886年。さすがはヴィクトリア朝のイギリスと言うべきか。この(上品な)時代にあっては、暴力や性についてあからさまに描くことは許されない、というか暗黙のお約束で、考えもできないことだったのであり、それが、スティーヴンスンの描写がごく控えめなものに留まっている大きな理由だろう(これがフランスだったら、もっとどぎつくなった可能性は大いにある)。いずれにせよ、レクター博士みたいな凄い「悪」をたくさん知っている後世の我々にとっては、この点で刺激が足りなく感じるのは致し方ないだろうか。

 ここで話はかわるが、『ジーキル』の刊行は1886年である。ふむ。ということは、モーパッサンの「オルラ」(初出の短編版)と同年である(決定版は翌87年)。ここにもう一つ、同じ86年に発表された作品として、ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』を並べてみたらどうだろう、というのが、実は、本日の私の主題なのだ。この三作品を、科学的発想に基づいているという観点から括れるのではないか、という風に思うのである。

 確かに、「オルラ」自体は別に科学によって「発明」されるわけではない。しかし、それは「発見」され、実験によって存在が「証明」される(と語り手は信じる)ところの、「進化」によって登場した「新種」である。この点で、科学的世界観の上に立って空想されたものである、ということが出来る。一方、ジーキル博士は人間の精神を善悪の二種に分類できることを発見し、実験によってそれを現実のものとする。エジソンは人造人間を発明することで、理想の女性をこの世に実現せんと目論見る。もちろん、「科学」といっても、それは現実に科学的根拠を持つものであるわけではないのだけれど、この三作品の着想のもとには、「科学が人間に新しい知をもたらす」という理念が存在し、その前提の上で空想を進めることによって作品が構成されている、と言うことができるだろう。

 19世紀においては、一般的には科学は進歩と結びつき、肯定的なイメージを伴うものであった。なにしろそのお蔭で生活はリアルに日々改善していたのである。ロンドンの町はすでにスモッグで覆われていたかもしれないが、公害もまだ深刻化しておらず、科学は人間の可能性への期待と明るい未来を約束するものであったはずだ。

 だが一方で、科学がもたらす未知なる未来は、人に不安を与えることにもなる。科学が我々に何をもたらすのか、我々は前もって正確に知ることはできないのだ(そのことは今もまったく変わらない)。芸術表象においては、科学的想像力がネガティブな方向に展開することで、潜在的な不安に形象を与えるということもありえる。86年登場の三作品は、そのような形での空想の発露として、なんらかの共通点を持っているように感じられるのである。

 もちろん、科学的想像力という点では、なんといってもメアリー・シェリー(1797-1851)の『フランケンシュタイン』が際立っており、しかもこの作品は1818年に刊行されているのだから、ことさらに世紀末において新しい事象だったと考える理由はないのかもしれない。さらに言えば、もちろんフランスにはジュール・ヴェルヌ(1828-1905)という巨人がおり、60年代から元祖SFと呼ぶべき作品を次々に発表しているのである。この先行事例と、奇しくも86年に発表された三作品との間に、何か決定的な相違があるかと言われれば、それに肯定的に答えることは、今のところ正直、難しい。

 なので、これはまだほんの思いつきに過ぎないのだけれど、しかし偶然とはいえ、空想科科学小説の原型とも呼ぶべき三作品が、同じ1886年に世に出たという事実は、19世紀末における「科学的想像力」のありようを考えなおす、一つのきっかけになるのではないか。と、そんなことを夢想してみた次第である。この着想を、少し大事に育ててみたい。

 

 ZAZ ザーズのアルバム Paris (2015) からもう一曲、"Paris sera toujours Paris"「パリはいつもパリ」。1939年、モーリス・シュヴァリエ創唱、とか聞くと、正直、私は苦手ではあります。ともあれ、つまりこれは戦時中、灯火管制のしかれている中で作られた歌なのですね。

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Paris sera toujours Paris !

La plus belle ville du monde

Malgré l'obscurité profonde

Son éclat ne peut être assombri

Paris sera toujours Paris !

Plus on réduit son éclairage

Plus on voit briller son courage

Sa bonne humeur et son esprit

Paris sera toujours Paris !

("Paris sera toujours Paris")

 

パリはいつもパリだろう!

世界一美しい都市

深い暗闇にもかかわらず

その輝きは曇ることがない

パリはいつもパリだろう!

 その灯りを暗くすればするほど

ますます輝くのが見える その勇気

その上機嫌、そのエスプリが

パリはいつでもパリだろう!

(「パリはいつもパリ」)

『宝島』/ZAZ「パリの空の下」

『宝島』

 ガイブン初めの一冊にお薦めなのは何だろうか? という問いに対しては、無論、私だって好き好んで『ボヴァリー夫人』を挙げるわけではない。19世紀フランス文学限定というなら、『ゴリオ爺さん』を挙げてもいいかもしれないが、いきなり冒頭でつまずかれる危険がないとは言えない。『女の一生』? ははは。まあちょっと暗いですね、やっぱり。

 ガイブン初めの一冊は何もフランスでなくてもいいわけで、常識的に考えるなら、たとえば『宝島』などが挙がるのではあるまいか。と言いながら、実は私、読んだことがなかったので、このたび、

 ロバート・L・スティーヴンソン『宝島』、鈴木恵訳、新潮文庫、2017年

を読んでみたのである。文庫のどこにも書いてないっぽいが(ひどい話だ)、原著刊行は1883年。

 ところで、スティーヴンソンの生没年(これはちゃんと表紙裏に書いてある)は1850-1894年である。ふむふむ。って、おお、そうだったのか。それはつまりモーパッサンと同年生まれであり、没年も1年しか違わない、まったく同じ時代を同じだけ生きた作家だということではないか。

 スティーブンソンはエジンバラ出身、初めて活字になったのは1873年のエッセイ、短編第一作は「夜の宿」(1877年)。作家的地位を確立したのが『宝島』(1883)で、86年『ジキル博士とハイド氏』で文名は世界的に広まった。87年アメリカに移住、翌年帆船を購入して南太平洋を巡航。サモア諸島のウボル島を永住の地と決めるが、94年に急逝。以上は『日本大百科全書(ニッポニカ)』による。

 ということはつまり、1850年生まれの作家として、モーパッサン、スティーブンソン、ピエール・ロチ(1850-1923)、それに小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(1850-1904)を並べることができるわけである。これだけの面子がそろえば、なかなか豊作の年だったと言えるのではあるまいか。そして、この4人の名を一緒に眺めていると、彼らがそろって外国へ旅立っていった人たちだということに、おのずと関心が向かわずにおかないだろう。モーパッサン北アフリカへ、ハーンは極東へ、スティーブンソンは南洋へ、ロチは海軍士官として世界中を巡った。

 そうすると、同年ではないが同世代として、たとえば画家だけれども、タヒチに辿り着いたゴーギャン(1848-1903)とか、あるいは少しずれるかもしれないが、アビシニアまで貿易に行ったアルチュール・ランボー(1854-1891)、そして海洋文学として忘れられない、船員として世界を巡ったジョゼフ・コンラッド(1857-1924)といった名前を、さらに付け足してみたくなる。そして今更なことではあるけれど、彼らの生きていたのが「帝国」の時代であったことが思い出されるのである。

 早い話が、モーパッサンアルジェリアへ、ゴーギャンタヒチへ出かけて「いけた」のは、そこが「フランス」であったからであり、軍人や船員だったロチやコンラッドにはもとよりフランス・イギリスの後ろ盾があった。お雇い外国人として来日したハーンは言わずもがなである。また、一・二世代後になるが、サマセット・モーム(1874-1965)は旅行好きで、それこそ世界中を巡っているが、いわゆる「七つの海を支配した」大英帝国のお陰で、どこへ行っても英語が通じてさして不自由しなかったのだ(どこにも英米からの植民者がいたのだから)。その便利さが、彼にあれだけの旅行をさせた理由の一つであったのは確かだろう。

 なにもここでオリエンタリズムについて、知ったかぶりのことを偉そうに述べるつもりはないのだけれども、同年生まれの作家を並べることで見えてくる地平というのがあるものだ、ということをしみじみ思ったので、ここまで記してみた。1850年前後生まれの彼らは、未知なるものを求めて「海外」へと旅立つ、その衝動に駆られていた世代に属していたと言えるのかもしれない。

 さて、『宝島』である。カリブ海まで海賊の残した財宝を探しに出かけるという物語自体が、まさしく当時のイギリス作家ならではの空想の結実と言えるわけだけれども、それはともかく、この作品、実は舞台は18世紀に設定してある。19世紀末は、「帝国」の支配が行き届き、もはや荒くれ者の海賊たちが好き勝手やれるような時代ではなかったわけであり、海賊たちとの激しい戦いを主筋とするこの物語は、スティーヴンソンにとっても、すでに失われた時代への郷愁を込めたファンタジーだったということだろう。

 海辺の旅館に滞在する老海賊が殺され、遺品の中に、語り手の「私」は宝島の地図を見つける。郷士さんが船を仕立て、医師リヴジーらとともに、海賊が遺した財宝を求めて孤島に向けて出帆する。しかし、船員として雇い入れた一本足のジョン・シルヴァーらが謀反を企んでいることを「私」は知る……。

 読んで分かったことは、この話の主眼は、財宝の探索じたいにはなく(それは存在するのが自明であり、あっさりと発見される)、むしろ海賊たちとの戦い、そして「私」こと少年ジム・ホーキンズが繰り広げる冒険(一人で帆船を操縦し、海賊と決闘する)のほうにあるということで、いやもう、こんなに激しい物語とは知りませんでした。まさしく波乱万丈、ホーキンズのまさかと思う活躍ぶりに、これは子どもの時に読んでいたら手に汗握って夢中になったことだろうと、しみじみと思う。今になってみれば、郷士さんやリヴジー先生が、「私」をほいほいと冒険に連れて行ってくれることがまずもって大きなフィクションである、というようなことが見えてしまう。そのハードルを何気なく越えることによって、作者は読者を壮大なファンタジーの中へと導き入れているのだけれど、いやもう、そんなことが分かったからといって何の得になるものでもありません。そういうのを小賢しいという。

 そういうわけで、確かに面白く読んだのだけれど、いやー、読んどきゃよかったな小学生の頃に、と、どうしても思わずにはいられない、これはそういう小説でありました。

 興味深いのはなんといってもジョン・シルヴァーという人物であろう。元海賊たちをけしかけて謀反を企むも、形勢不利とみるやすぐに和睦を申し出るが、勝機あると見るやまたしても……、と二転三転するところ、悪役は悪役ながら一筋縄でいかないところが面白い。いかにも小悪党というか、あるいは実に「大人」な人物である。彼がどういう人間なのか、あるいは子どもにはよく分からず、謎めいて見えるだろうか。もっとも、そこがかえって魅力と見えるかもしれない。

 以上、つらつらと駄弁を弄してしまった(いつものことかもしれないが)。なにはともあれ、やはり『宝島』は物語の魅力に溢れており、ガイブン初心者入門編にうってつけと言えるのではないかと、ごく素朴に思う。そして汚れちまった大人の読者は、きっとラム酒を飲みたいと思うこと、請け合いである。

「十と五人が、死人の箱に――

 よお、ほの、ほ でラム一本!

残りは酒と 悪魔にやられ――

 よお、ほの、ほ でラム一本!」

(スティーヴンソン『宝島』、鈴木恵訳、新潮文庫、2017年、18頁)

 

 ザーズ ZAZ は何が偉いといって、外国人が求める「フランス大使」的役割を、堂々と引き受けて見せる、その気概というか心意気というかである。パリを歌ったシャンソンを集めた、2014年のアルバム Paris 『Paris~私のパリ~』は、その宣言ともいえるもの。"Sous le ciel de Paris"「パリの空の下」は中の一曲。もとは、1951年ジュリヤン・デュヴィヴィエ監督の同題の映画で歌われた曲。ルフランがないので、一番の歌詞を丸ごと。

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Sous le ciel de Paris

S’envole une chanson

Hum Hum

Elle est née d’aujourd’hui

Dans le cœur d’un garçon

Sous le ciel de Paris

Marchent des amoureux

Hum Hum

Leur bonheur se construit

Sur un air fait pour eux

("Sous le ciel de Paris")

 

パリの空の下

一曲の歌が飛び立つ

フム フム

それは今日生まれた

一人の少年の心の中で

パリの空の下

恋人たちが歩く

フム フム

彼らの幸福は作られる

彼らのために作られた調べに乗って

(「パリの空の下」)