えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『アニメーション、折りにふれて』/テテ「秋がやってきたから」

高畑勲『アニメーション、折りにふれて』

 ミッシェル・オスロの話の続き。

 高畑勲に私がもっとも感謝していることは、ミッシェル・オスロの作品を日本へ紹介してくれたことだ。

 高畑勲『アニメーション、折りにふれて』、岩波現代文庫、2019年

に収録されている「『キリクの魔女』の世界を語る」という2003年のインタヴューの中で、この作品について語られているのを読んで、なるほどと思うことが多かった。

 ここで高畑は、「思いやり」の映画と「思い入れ」の映画という二分法を使って、アニメ映画を語っている。

 観客が能動的に、想像力を働かせて「思いやる」必要があるタイプの映画では、観客は主人公を待ち受けている危険が分かっていて、「ハラハラ」しながらその行く末を見守る。それに対して、観客を主人公と一体化させ、「思い入れ」させるタイプの映画では、観客は、何が起こるか分からない展開を「ドキドキ」しながら待ち受ける。巻き込まれた観客は受け身のままで、ものを考えなくても済む。

 高畑自身は一貫して、見る側の思考する余地を残す「思いやり」タイプの映画を心がけてきたとして、彼は続けて述べている。

  日本のアニメーションは、娯楽としては超一流になり、見終わって「よかった!」という快楽を与えるけれども、現実を生きていくうえでは、それはなんの力も持っていないと思うんですね。役に立っていないと思う。いま流行りの「癒し」とかいうものにしかならない。現実を生きていくときに、もしもドキドキしながら進んでいても、それでは結局足が前へ出なくなって進めなくなる。だって、次に何が出てくるか何も分かっていないわけだから。現実に生きていくためには、自分で考えなくちゃいけない。たとえばこの穴はどうなっているのだろうか、とか。もし分からなければキリクのように「どうして?」と聞いたり探求したりせざるを得ない。そして今度はどのようにやらなくちゃいけないかを考えて、そして行動する。それが現実を打開する方向ですよね。生きていく方法です。

高畑勲『アニメーション、折りにふれて』、岩波現代文庫、2019年、268頁

  とても誠実で、とても真面目な人の言葉だ。真面目すぎると思わずにはいられないくらいに。ここには宮崎駿に対する批判がはっきりと窺われるという点でも、興味深い言葉だと思う。もう一か所、引用。

 ところで今、現実世界は複雑怪奇なんて言いましたが、アニメの作品世界のほうもやたら複雑怪奇なものになっているんです。リアリティを実感させるための目くらましですね。それに対してこの『キリク』は見事に単純です。しかし、ファンタジーでもあるにもかかわらず、現実を生きていくうえでの、イメージトレーニングになるように作ってある。キリクは小さくて力もない。走るのが速いだけ。それでできることを探すんです。分からないことがあれば聞くし、「なぜ、どうして?」というのがこの作品の惹句になっていますが、それだけじゃなくて、どうしていくかということをいつも考えている。そうやって一歩一歩やっているから、僕としては見終わったあと、非常にすっきりした映画だったんです。本当の喜びがあった。

(同前、269-270頁) 

  いかにも、『キリクと魔女』の素晴らしさは、作品に投影された監督の人間観、人生観の、深みと確かさに多くを負っているだろう。大げさな言葉かもしれないが、そこには確かに叡智がある。

 そして、ミッシェル・オスロ監督は、まさしく高畑勲にこそ見いだされるべきだったのだということを、このインタヴューを読んでしみじみと納得した。その幸運な出会いを、改めて有難いことだと思ったことだった。

 

 この十年、秋になると一度は聴く曲。テテ Tété の「秋がやってきたから」"A la faveur de l'automne"は、2003年の曲。2013年の演奏。

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A la faveur de l'automne

Revient cette douce mélancolie

Un, deux, trois, quatre

Un peu comme on fredonne

De vieilles mélodies

 

A la faveur de l'autome

Tu redonnes

A ma mélancolie

Ses couleurs de super-scopitone

A la faveur de l'automne

(A la faveur de l'automne)

 

秋がやってきたから

あの甘いメランコリーが戻ってくる

1、2、3、4と

ハミングするように

古びたメロディーを

 

秋がやってきたから

君がまた与えてくれる

僕のメランコリーに

古びたその色合いを

秋がやってきたから

(秋がやってきたから)

『ディリリとパリの時間旅行』

『ディリリとパリの時間旅行』

『ディリリとパリの時間旅行』、ミッシェル・オスロ監督、2018年

 待望のオスロ監督の新作を映画館にて鑑賞、感無量。

 時は1900年、万国博覧会の「人間動物園」に出演していた、ニューカレドニアからやってきたカナカ族の少女ディリリは、なんと故国で(当時、流罪中だった)ルイーズ・ミシェルに習っていたのでフランス語を話せる。彼女は、三輪車の配達人オレルとともに、少女たちを誘拐する「男性支配団」の謎の解明に乗り出す……。

 ディリリとオレルは三輪車でパリの町を駆け巡るのだが、そこで凱旋門ヴァンドーム広場、ルーヴル、ノートル=ダム、といったモニュメントを次々と巡ってゆく。監督が4年かけて撮り貯めた写真に基づくというその背景画が、とにかく美しくて逐一驚かされっぱなし、それが本作の第一の見どころだ。「夢のような」とか「目を瞠る」とかいう言葉は、すり切れた紋切型でしかないけれど、本当に文字通りに茫然と見惚れるばかりの画面が、次から次にと現われてきて、休む暇もないほどだ。

 そして二人は行く先々で、当時存命だった著名人に出会ってゆくのだが、これが凄い。ルナンに始まり、ピカソマチスルノワール、モネ、マリー・キュリーコレット、サティ、トゥールーズロートレック、まだ無名なプルーストロダンカミーユ・クローデルサラ・ベルナール……、と、これだけでもすでに錚々たる面々だが、それどころの話ではなくて、その数、総勢100名にもなるというから大変だ(気がつかなかった人物が色々いて悔しい)。いや、もう、これは19世紀、ベル・エポック期のフランスに関心を持っている人間には、まさしく「夢」そのもの、興奮と悦楽に満ち満ちた、奇跡のような時間が流れつづける、そういう稀有な映画である。

 もっとも、ミッシェル・オスロが素晴らしいのは、決してその絵だけではない。『キリクと魔女』、『アズールとアスマール』から『夜のとばりの物語』まで、この監督は常に、物語を勧善懲悪に落とし込むことがなかった。善悪二元論を解体し、異なる解決の道がありうると示すこと。一方的な見方から解放された先に、他者に対する理解と共感が存在すること。そうしたことを、説教臭くなることを回避しながら、なおかつ雄弁に語ってみせることができたところに、この監督の類まれな誠実さと、子どもに向けたアニメーション製作者としての揺るぎない信念が存在していた。

 実のところ、その観点からすると、本作はどうなのだろうかという一抹の思いがないではない。確かにこの作品でも、監督は敵を「退治」する場面によって物語を終わらせはしなかった。また、ルブフという人物が変化する様には、人間を一元的に捉えない監督の思想がはっきりと投影されている。それでも、これまでの作品に比べると、いささか物足りない思いが残るように感じたのではある。 

 だが、そんな繰り言は、あの圧倒的な陶酔感に比べれば何ほどの意義も持ちはしない。まったくもって、このあまりにも美しい夢に、いつまでも浸っていたいと思わずにはいられない。

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『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』/バルバラ「褐色の髪の女性」

『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』

 『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』、バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ&ヴァンサン・パタール監督、2012年

 これについては以前からぜひ一言記しておきたかった。

 「くまのアーネストおじさん」は、ガブリエル・バンサンによる絵本のシリーズで、アーネストとねずみのセレスティーヌの温かい交流の様が愛おしい作品。それが2012年にフランス=ベルギー=ルクセンブルクでアニメーション映画になった。もっとも、映画化といっても原作をなぞったものではなく、脚本は人気作家のダニエル・ペナックによる。主人公の造形も絵本とは実はだいぶ違っている。

 それはそれ、この映画はとてもよく出来ているので、ぜひこの素晴らしさをもっと多くの人に知ってほしいと思わずにいられない。

 まずは、なんといっても絵がいい。原作にあわせて、動物たちと背景は水彩画タッチで描かれているが、その絵柄が、ノスタルジックな感じも漂わせつつ、上品で、優しく、あたたかみに溢れている。

フランスの伝統的なアニメーションは絵柄に力を入れる分、動きには乏しいことが多かったように思うが、本作は動的なシーンも多く、その動きはしなやかで、実に生き生きしている。そこにはジブリをはじめ、日本のアニメーションの影響がはっきりと窺われるが、絵柄と動きがとてもよく融合している。画面の切り取り方にもその都度工夫が見られ、飽きさせずに物語が進行してゆく。

 そして物語が素晴らしい。世界は地上と地下に二分されており、地上はくまが住み、地下にねずみが住み、両者は敵対している。そこで、それぞれの世界において、はみだし者で居場所のない、くまのアーネストと、ねずみのセレスティーヌが出会う。ふたりはやがて仲良くなるが、両方の世界の警察がふたりの行方を追いかけていた……。

 ペナックの脚本は模範的なまでに律儀に、地上と地下とを対比させ、交互に物語を語ってゆく。そのシンメトリーの構図が、とてもよく考えられていて見事だ。そして、それぞれの世界で居場所を持てないふたりが、互いを大事に思うようになってゆく。その様子がいじらしくも、微笑ましいのである。なんとも模範的な構成なので、大人の鑑賞者が感涙にむせんだりはしないだろうけれども、十分に納得し、満足して観終えること疑いないと思う。構図、シーンの構成から、表情や声優の配役を経て、エンディングのトマ・フェルセンの歌に至るまで、これは、実にまったく非のつけどころのない佳作だと断言したい。

 くまはくま、ねずみはねずみ。互いに相容れることはできないと思われている「社会」に対し、アーネストとセレスティーヌは抗議の声を上げ、そして言う。自分たちは一緒にいたいのだと。異なる者どうしの共生という本作のメッセージは、紛れもなく今の世界にとって最も重要なものの一つに他ならない。

 そもそも、なぜくまとねずみなのか。その問いに答えるのは、さして難しいことではない。最も大きなものと最も小さなもの。くまとねずみとは、まったく異なるもの、正反対のものの象徴に他なるまい。だから、他者とのあたたかい共生という主題は、もちろんガブリエル・バンサンの原作の根幹に根づいているものだ。ペナックの脚本はそれを作品の中心に置くことで、原作者の思いをきちんと掬い上げてみせたのである。

 

 実はその後、2017年に「くまのアーネストおじさん」は、短いテレビアニメ(1話13分)のシリーズが制作され、今年、日本版のDVD(6巻)が発売された。絵柄は多少異なっており、アーネストおじさんの声優も替わっている(品が良くなったと言おうか)が、全体としてなかなかよく出来ているので、こちらも広く知られるといいなと思っている。

『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』DVD発売!|DVD公式サイトーGAGA

 

 バルバラの話をしていると、隔世の感があってくらくらするやら、気恥ずかしいやらではある。これも目まいがしそうに懐かしいジョルジュ・ムスタキとのデュエット「褐色の髪の女性」"La Dame brune" は、1967年の作。この映像もその頃か。

 バルバラくらい人間ばなれしていると、こんな歌でも歌えてしまう。彼女以外でこの歌が歌える歌手をとても思いつかない。いやもう大変。最初の2節だけ拙訳。

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Pour une longue dame brune

J’ai inventé

Une chanson au clair de la lune

Quelques couplets

Si jamais elle l’entend, un jour

Elle saura

Que c’est une chanson d’amour

Pour elle et moi

 

Je suis la longue dame brune

Que tu attends

Je suis la longue dame brune

Et je t’entends

Chante encore au clair de la lune

Je viens vers toi.

Ta guitare, orgue de fortune

Guide mes pas

("La Dame brune")

 

長身の褐色の髪の女性のために

僕は作った

月明かりの下の歌

いくつかの節

いつか彼女が聴いてくれたら

分かるだろう

それが愛の歌だと

彼女と僕のための

 

私は長身の褐色の髪の女性

あなたが待っている

私は長身の褐色の髪の女性

私は待っているの

月明かりの下でもっと歌って

あなたのもとへ行くわ

あなたのギター、間に合わせのオルガン

道を教えて

(「褐色の髪の女性」)

『シェリ』/バルバラ「ゲッティンゲン」

『シェリ』表紙

 コレットシェリ』、河野万里子訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 私は個人的にはコレットにも『シェリ』にもなんの関心もないのだけれど、そういう人間の言うことだからぜひ信じていただきたいと思う。

 コレットは本物だ。骨の髄からの小説家だ。『シェリ』はまぎれもない傑作だ。

 小説は頭(だけ)で書けるものではないということを、これほどしみじみ感じることはなかなかない。49歳の高級娼婦レアに、25歳の美青年、愛称シェリが「くれよ、これ、この真珠のネックレス!」と声をかける冒頭から、二人の人物の姿がありありと立ち現れてくる様に圧倒される。むき出しのレアの腕のなまめかしさ、ネックレスをかけてふざける絶世の美青年の肌や、歯並びの艶。身体を捉える感性の細やかさと、そこから溢れ出る官能性に、冒頭の数ページだけでくらくらする思いだ。少しばかり引用しよう。

 彼は、横たわっている女の上にかがみ込むようにしながら、小さく並んだ歯と唇の濡れた裏側も見せて、挑発的に笑った。レアは起き上がると、ベッドの上にすわった。

「いいえ、言わない。だって言っても信じないでしょ。ねえ、そういうふうに鼻に皺を寄せて笑うの、やめられない? 鼻の脇に三本皺ができたら、さぞうれしいんでしょうね」

 たちまち彼は笑うのをやめ、肌を気づかう熟女のような巧妙さで額の皺を伸ばしながら、顎の下にもぐっと力を入れた。それからふたりは、敵意をにじませるように見つめ合った。彼女は下着やレースの間に肘をついて、彼はベッドの端に横ずわりして。

〈ぼくに皺ができる話をするなんて、まったく、このひとにお似合いだ〉と彼は思い、〈どうしてこの子は笑うと醜くなるのかしら? ふだんはほんとうに美しいのに〉と彼女は思った。(9頁) 

 意外性に富みながらも人物像をしっかり捉えた台詞は、二人の関係性をも見事に浮き彫りにする。姿勢や仕草の描写にも隙がなく、まったく違うことを考えている二人の思いのコントラストが、それぞれのキャラクターをさらに鮮明にしている。明晰かつ繊細、簡潔にして情感に溢れた文章は、見事というよりない。

 『シェリ』は、50歳を目前にした高級娼婦レアと、ライヴァルだった女性の息子シェリとの関係を描いた恋愛小説。シェリを子どもの時から知っていたレアだが、彼が20歳の時から恋愛関係を続けてきた。しかしシェリと大金持ちの娘エドメとの結婚が決まり、二人の関係が終わりになることは、双方にとって自明のことだった。

 そのはずだったのだが、実はそうではなかった、というところから物語は進んでいく。新婚旅行から帰ってきたシェリは、やがて喪失感に耐えられずに、妻を捨てて家を出る。一方、レアもまた心の空白を紛らすために旅に出る。長旅から帰ったレアは、新しい生活を切り開こうという意志を持っているが、しかしシェリを失った寂しさを拭い去ることができないでいる……。

 この小説においては、コレットはすべての登場人物に対して「客観的」な立ち位置に立っており、その意味では19世紀小説的(フロベール的と言うべきか)である。主人公はレアに違いないだろうが、新婚のシェリエドマの関係(レアへの嫉妬)や、レアを失ったことに実は耐えられなかったシェリの煩悶にも焦点が当てられる。それぞれの場面が人物を立体的に浮き彫りにしているのはもちろんのこと、この作者の立ち位置と冷静な批評的視点が、この物語を感傷的な恋愛小説にせず、むしろ古典主義的と言いたいくらいに節度を保った美しいドラマに仕上げている。

 これが仮に五幕のドラマであれば、おおよそ次のように分けられるだろう。第一幕、結婚前のシェリとレア、第二幕、新婚夫婦、そしてレアの孤独、第三幕、シェリの彷徨、第四幕、レアの帰還、第五幕、二人の再会。こうしてみると、実に簡潔で、すべてが必然的に展開することがよく分かるのではないだろうか。二人がともに別れは何でもないことと思っていながら、実は互いにとって相手はかけがえのない存在であったことを思い知らされる。そのことに耐えられずにじたばたする青年と、気丈にじっと耐え続ける大人の女性。諦めきれない青年は、彼女の帰還を知って喜び、ついに彼女の元へやって来る……。ここからのいわば最終幕の展開の素晴らしさについては、もはや筆舌に尽くしがたいと言うよりない。

 シェリとの再会の喜びのあまりに、レアは彼女の「弱さ」を、初めてシェリに対して見せてしまう。そしてそのことが二人の関係に決定的な楔を打ち込むことになる。その彼女の失敗を招くのは、最初から常にテーマとして存在していた、レアに忍び寄る「老い」の自覚だ。いかに美貌を誇った高級娼婦といえども打ち勝つことのできない「老い」とは、神ならぬ人間には避けられない「宿命」であるだろう。その「宿命」にヒロインが打ち負かされるという意味において、この疑似五幕のドラマは、まさしく古典主義的な「悲劇」の様相を帯びるのである。もちろんレアが死んだりするわけではないが、しかしこの結末のなんと残酷で、そしてなんと美しいことだろう。いわばそこで、彼女の心は死を迎えるのだと言ってもいいかもしれない。

 コレットは『シェリ』において、驚異的なまでに瑞々しい感性と、厳格と言っていいまでの様式美とを見事に結合させることによって、フランス文学の伝統の上に堂々とその地位を主張する傑作を実現してみせた。と、こういう仰々しい物言いがまったく似つかわしくないような洗練と優雅さを振りまきながらに。

 どこまでも美しく、どこまでも聡明なレアに見惚れるように、『シェリ』とコレットの天才ぶりに、ほれぼれと魅了されずにはいられない。

 

  問答無用の名作ということで、バルバラ Barbaraの「ゲッティンゲン」"Göettingen" を挙げよう。INAのアルシーヴから、1967年の映像。最後の2節のみ拙訳。

 対立よりも融和を。敵意よりも寛容を。価値があるのはそれだけだ。

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 O faites que jamais ne revienne

Le temps du sang et de la haine

Car il y a des gens que j’aime

À Göttingen, à Göttingen.

 

Et lorsque sonnerait l’alarme

S’il fallait reprendre les armes

Mon cœur verserait une larme

Pour Göttingen, pour Göttingen.

("Göettingen")

 

おお、二度と戻って来させないで

血と憎しみの時を

だって愛する人がいるのだから

ゲッティンゲンには、ゲッティンゲンには

 

そして警報が鳴るとき

武器を取らなければならないなら

わたしの心は涙を流すでしょう

ゲッティンゲンのために、ゲッティンゲンのために

(「ゲッティンゲン」) 

『ラ・フォンテーヌ寓話』/バルバラ「マリエンバード」

『ラ・フォンテーヌ寓話』表紙

 『ラ・フォンテーヌ寓話』、ブーテ・ド・モンヴェル絵、大澤千加訳、洋洋社、2016年

 『イソップ寓話』というのなら、日本人の大半はよく知っている。昔から、子どもたちに人生の教訓をわかりやすく教えるという目的で、絵本や小学生用教科書に使われてきたからだ。

 ところが、この『イソップ寓話』をもとにして一七世紀フランスのラ・フォンテーヌという文人が書いた『寓話』となると、岩波文庫に入っていて簡単に読めるにもかかわらず、日本人でこれを繙いたことのある人というのはほとんどいない。「ラ・フォンテーヌの『寓話』って、何、それ?」ということになる。

 こうした無知は、じつは、フランス文学が専門のフランス文学者においても同じなのだ。ラ・フォンテーヌの『寓話』を原文で読んだことのある人はいうに及ばず、翻訳で読んだという人すら決して多くはない。たいていは、なんとなく知っているというレベルにすぎず、本当のところは一行たりとも読んだことはないのだ。

鹿島茂『「悪知恵」のすすめ ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』、清流出版、2013年、3頁)

  やれやれ、なんだか耳の痛いことが書いてある。だってラ・フォンテーヌのフランス語は難しいし、頑張って読んでも何言ってるかよく分かんないんだもん。とか「無知」に輪をかけるような言い訳をしても空しいだけだが、それはともかくとして、この『「悪知恵」のすすめ』は、ラ・フォンテーヌの『寓話』の内容が実によく分かって有難い本だ(『「悪知恵」の逆襲』という続編もある)。その要点は「フランス人は、原則的に性悪説に立ち、「人を信じるな」を教育の眼目に据えている」(96頁)という文に尽きると言ってよいだろう。

 ラ・フォンテーヌの『寓話』が与える教訓の第一は「騙されるな」ということであって「騙すな」ではない。これはすでに何度も強調してきたことである。

 では、「騙すな」ではなく「騙されるな」が最大の教訓となっている理由は何かといえば、それは「人は騙すのが当たり前」という性悪説がラ・フォンテーヌを始めとするフランス人の思考の基礎となっているからだ。つまり、全員が悪党だという前提で社会が運営されているのである。(124-125頁) 

  いやー、そうだったのか。なるほどなー。と、納得していいのかどうかは知らないが、なるほどそうかと思って読むと、ラ・フォンテーヌの『寓話』はそういうことをしっかり述べているように思われる。うむうむ。これは実に大人の世界であって、子どもにはきっと分かるまい。

 さて、話は戻って、以前に書店で見かけた本が、ブーテ・ド・モンヴェルの挿絵の入った『寓話』の翻訳であった。

 Louis-Maurice Boutet de Monvel (1850-1913) はフランスの挿絵画家、絵本作家。その丹精な絵柄は今でも愛され、童謡やジャンヌ・ダルクの生涯などが読み継がれている。ラ・フォンテーヌの寓話も代表作の一つ。奇しくもモーパッサンと同年生まれでもある。

 なるほどモンヴェルの丁寧で明瞭、温かみのある絵は、一見したところ寓話の挿絵にまことにふさわしいように思える。しかしながら、ラ・フォンテーヌの描くのは、実のところは「全員が悪党」の世界である。したがって動物たちの多くは、最後には騙されたり、失敗したり、あまつさえは食べられたりしてしまうのだ。この身も蓋もないオチと、決して乱れることのないモンヴェルの愛らしい絵柄とが、なんとも絶妙な違和感を醸しだしているのである。

 つまり、変と言えば変なのだ。だがしかし、じっと眺めていると、その微妙なギャップが、動物たちの姿を一層に味わい深いものにしているようにも見えてくる。いずれも滑稽とも哀れとも言い難く、なんともいじらしいのである。

 子どもにももちろん楽しめるが、モンヴェルの絵を含めても、ラ・フォンテーヌの寓話はやはり大人向けのもののようだ。ぜひ、大人の読者に手に取ってもらいたいと思う。

 

 さて、開き直って(?)バルバラ Barbara を聴こう。彼女の歌の中で、私がとくに好きな一曲が、「マリエンバード」"Marienbad"だったりする。作詞はFrançois Werthimer で、この歌詞はいかにも「はったり」な感じはするのだけれど、それはそれ。

 INAにも映像があるが、今日はスイスのRTSアーカイブより、1975年の映像。最後に立ち上がって回るところが、実になんとも筆舌に尽くしがたい。最初の二節のみ拙訳。

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Sur le grand bassin du château de l’idole

Un grand cygne noir, portant rubis au col

Dessinait sur l’eau de folles arabesques

Les gargouilles pleuraient de leur rire grotesque

Un Apollon solaire de porphyre et d’ébène

Attendait Pygmalion, assis au pied d’un chêne

 

Je me souviens de vous

Et de vos yeux de jade

Là-bas, à Marienbad

Là-bas, à Marienbad

Mais où donc êtes-vous

Où sont vos yeux de jade ?

Si loin de Marienbad

Bien loin de Marienbad

("Marienbad")

 

崇拝する人の住む城の大きな池で

大きな黒鳥が、首にルビーをつけ

水におかしなアラベスクを描いている

ガーゴイルはグロテスクな笑いに涙し

斑岩と黒檀でできた太陽神アポロン

楢の木の下に座るピュグマリオンを待っている

 

あなたを思い出す

翡翠色のあなたの目を

彼方、マリエンバードで

彼方、マリエンバードで

いったいあなたはどこにいるの

あなたの翡翠の目はどこに?

マリエンバードから遠く離れて

マリエンバードからずっと遠くで

(「マリエンバード」)

『千霊一霊物語』/バルバラ「我が麗しき恋物語」

『千霊一霊物語』表紙

 アレクサンドル・デュマ『千霊一霊物語』、前山悠訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 刊行は1849年。舞台は1831年、語り手(デュマ自身)は、妻を殺したばかりだと打ち明ける男に遭遇、市長らと一緒に現場検証に出かけるが、そこでその男は、殺した妻の生首がしゃべりだしたのだと告げる……。

 その後、市長のリュドリュに会食に呼ばれた「私」は、奇妙な客たちと顔を合わせることになる。話は当然、先ほどの殺人犯の告白の真偽についてになるが、検死に立ち会ったロベール医師は、ただの幻覚に過ぎないと言って請け合わない。するとリュドリュ氏は断固、生首が動くことはありえると言い、なぜなら自分はそれを体験したからと、回想話を始める……。

 そこから以下、会食者たちが順に超自然的な物語を語っていくことで成り立つ連作短編、それがこの『千霊一霊物語』の構成である。話が続いていくから『千夜一夜物語』になぞらえ、それが怪談だから『千霊一霊』、というのはいかにも安直なタイトルではある(日本なら百物語というところか)。

 が、それはそれ、なんといってもアレクサンドル・デュマ。話芸の巧みさは見事なもので、ひとたび読みだしたら止まらない。あれよあれよという間に読み終えて、読み終えた途端にすべてを忘れて、後には何も残らない爽快感、とでも言おうか。正直、特別に何かを言おうという気にもならないが、これはそういう本なのだから、それでよいのではあるまいか、と思うのである。

 デュマがうまいのは、まず最初に持ってくるのが、ギロチンで切られた頭に意識は残っているかという、解説にも述べられているとおり、当時大真面目に議論された話題だという点である。そこに、処刑されたシャルロッテ・コルデーの生首に処刑人助手が平手打ちを食らわせると、恥辱ゆえに生首が赤らんだという、実際の記録に基づく逸話が挙げられる。したがって、この時点(およそ100頁)までは、まだ読者に「本当にありえるかもしれない」と思う余地が残されている。そうして読者を引きつけておいた上で、そこからようやく超自然的な領域に飛び込んでいくのである。あとはもう作者のお手の物と言うべきところだろう。

 また、さすがは伝統だなと思うのは、サン=ドニの王墓にまつわる話(第9章)があったり、怪談のベースにキリスト教の信仰があって悪魔憑き(「第10章 ラルティファイユ」)の話などが出てくるあたり。もっとも、作者が「信仰を失ったみなさんの国」(352頁)と東欧出身の女性に言わせる、19世紀半ばのフランスである。ここでは幽霊や悪魔の扱われ方は、ゴーチエの『恋する死霊』などと同様、すでに完全に近代のものである。したがって、デュマの怪談には背徳的なところは全然なく、おどろおどろしくはないので、総じて話はからっとしているという次第だ

 いやまあ、実のところ、ほとんど馬鹿馬鹿しいくらいに仰々しいソランジュとアルベールの物語(第6・7章)など、私も決して嫌いではなく、ロマン派時代(あるいはフロベール以前)の作家は自由気ままでよかったなあと、しみじみ思いもする。論文を書く気にはぜんぜんならないが、単純にして力強い「物語」の魅力と喜びがここには詰まっており、読書の原点はこういうところにあるのだという気がする。本邦初訳を寿ぎたい。

 

 先日、マチュー・アマルリック監督『バルバラ セーヌの黒いバラ』Barbara (2017) を観た。けっこう期待していたのだが、うーむ、これは一体何なのだろう、と狐につままれたような気になる。

 一体この映画には、アマルリックジャンヌ・バリバールバルバラになってほしかった、という以外に何かあるのだろうか。バリバールの演技は見事であると思うけれど、しかしもうちょっと素直に観客のことを考えて映画作れませんか、と思わずにはいられない。いやはや。

 ここはもう、本物を拝聴するしかない。INAのアーカイブより、1967年の「我が麗しき恋物語」"Ma plus belle histoire d'amour"。あまりにも美しい。フランス語を勉強してよかったと、心から思える理由の一つは、バルバラを知れたこと。最初の節だけ拙訳。

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Du plus loin que me revienne

L'ombre de mes amours anciennes,

Du plus loin du premier rendez-vous,

Du temps des premières peines

Lors, j'avais quinze ans à peine,

Cœur tout blanc, et griffes aux genoux.

Que ce fut, j'étais précoce

De tendres amours de gosse

Ou les morsures d'un amour fou,

Du plus loin qu'il m'en souvienne

Si depuis j'ai dit « je t’aime »

Ma plus belle histoire d'amour, c'est vous.

("Ma plus belle histoire d'amour")

 

一番遠いところから戻ってくればいい

わたしの古い恋愛の影が

一番遠いところから、最初の逢引きから

最初の苦しみの時から

その時、私はせいぜい15歳だった

心は真っ白、膝には爪跡

わたしは早熟だった それはなんて

子どもっぽい優しい恋だったこと

あるいは狂ったような恋の傷跡

一番遠いところから、思い出せればいい

それ以降「あなたが好き」と言ったなら

わたしの一番美しい恋物語、それはあなた

(「我が麗しき恋物語」)

『哲学する子どもたち』/ヴァネッサ・パラディ「キエフ」

『哲学する子どもたち』表紙

 毎年、6月はバカロレアのシーズンで、今年はどんな問題が出たかとニュースになるが、その時に、ふと読みだしたら止まらずに、一気に読んでしまったのが、

 中島さおり『哲学する子どもたち バカロレアの国フランスの教育事情』、河出書房新社、2016年

だった。著者はフランス在住で、本書は、二人の子どもを育てる中で著者が知ることになった、日本とは大きく異なる学校事情について綴られている。学校の中というのは当事者の子どもでないとなかなか知ることのできない所であり、なるほどそんな風になっているのか、と学ぶことが多かった。たいへん合理的に設計してあるわりに、現場の人間が自由気ままなために色々と問題を起こしながら、全体としてはなんとか回っている、というところがいかにもフランスらしい。フランスの良いところ、日本のほうが良いと思えるところ、双方に目配りが届いており、記述のバランスが取れているのが、本書が読みやすい大きな理由だろう。

 フランス型システムの特色の中では、哲学の授業、多言語教育などは特に、日本も取り入れてほしいものだと思う。フランスでは未成年の飲酒、喫煙じたいが禁止されていない(販売は禁止)ために、「中学生でも放課後や家で吸っている分には別にかまわない」(135頁)というのは知らなかったので、驚き、また納得した。その他、生徒代表を含めての成績会議、飛び級や留年の実情、修学旅行は先生しだい、停学や放校が稀ではないこと、ラテン語の行方、等々……、いや本当に知らないことばかりだった。

 ところで、本書にモーパッサンが登場するのだけれど、その箇所がとても興味深いので、長めに引用させていただきます。

 実は中学校になると、フランス語教育は突然、文学教育になる。教養課程でフランス語の初歩を習ったかと思うと、いきなりスタンダールとかカミュとか読まされる、昔の仏文科のようだ。仏文というのは、本国のフランス語の学び方を真似していたのかしら。

 そんなわけで、中学初年の第六学級では古典と中世文学がカリキュラムだとかで、ホメロスとかラブレーを現代語訳で読んでいた。

 第四学級(中二相当)では学年のテーマが一九世紀のリアリズム小説と幻想小説だったので、モーパッサンとかメリメとかテオフィル・ゴーティエとか、私にも馴染みのある作家の作品のことを子どもたちと話す楽しみが生まれた。

 モーパッサンは、永井荷風始め、日本の近代文学を作った作家たちがお手本にした作家だけれど、今日ただいま、日本でどれほどの若者が読むのだろうか。それはちょっと心もとないが、本家フランスでは、中学生が必ず読まされる作家だ。そしてモーパッサンがスゴイと私が思うのは、決して文学好きでもなければ優等生でもない現代の子どもの心を捉えて離さないことである。

 冬休みの宿題に『首飾り』を読まされて、うちのムスメは夢中になったのだが、もっと面白かったのは、宿題をやって来なかったシャルル君の話だ。読んで来なかったのでテストされる前になんとかしなければと、彼は授業を聞かずにこっそり本を読んでいたのだが、『首飾り』のオチに「C'est pas vrai !(ありえねー!)」と大きな声を上げてしまって教室中の注目を浴び、もちろん内職はバレてしまったのだった。きっとモーパッサンは墓の中で大満足でシャルル君をかわいく思っただろう。

中島さおり『哲学する子どもたち バカロレアの国フランスの教育事情』、河出書房新社、2016年、169-170頁) 

 

 Vanessa Paradis ヴァネッサ・パラディのアルバム『泉』Les Sources (2018) より、「キエフ」"Kiev"。

www.youtube.com

Il faudra se survoler

Apprendre à garder les rêves

Jusqu'à la nuit tombée

Pour nous retrouver à Kiev

("Kiev")

 

上を飛んでいかなければ

夢を守ることを学ばなければ

夜がやって来るまで

キエフで私たちが再会するために

 (「キエフ」)