えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『小説の技巧』/ヴァネッサ・パラディの感謝の歌

『小説の技巧』表紙

 デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』、柴田元幸斎藤兆史訳、白水社、1997年(2016年24刷)

 とても売れているこの本も、つい最近に知って読んだ次第。

 本書は新聞日曜版の連載をまとめ直したもの。各回、小説の技法に関するテーマを一つ取り上げ、作品からのやや長めの引用と解説とからなっている。テーマは「書き出し」に始まり、「作者の介入」「サスペンス」と続き、「内的独白」、「人物紹介」「描写と語り」「象徴性」「アイロニー」「題名」等々を経て、「結末」までの計50章。解説は、技法についての一般的な説明と、引用テクストの読解とからなっている。両者のバランスがいいのはもとより、後者は西欧流のテクスト分析のお手本と言ってもいいもので、実に切れよく作品の特徴を鮮やかに浮かび上がらせてみせる。挙げられている引用も多種多用で、いやあこんな風な読解ができたら理想的なんだけど、とため息でるような書でありました。

 テクスト分析はそれぞれを読むしかないが、一般的説明の部分で特になるほどと思った箇所を幾つか拾っておこう。

 文章というものは、厳密にいえば、他の文章を忠実に模倣することしかできない。喋り言葉を再現することも、いわんや言語ではなく出来事を再現することも、きわめて人工的な営みにほかならない。けれども、虚構の手紙は本物の手紙と区別不可能である。そこが強みなのだ。小説が書かれているその状況について、テクスト自体のなかで言及することは、普通ならテクストの背後にひそむ「真の」作者の存在に注意を喚起してしまい、虚構の現実感を損ねてしまうわけだが、書簡体小説の場合にはそれがむしろ現実感を高めてくれる。

(「書簡体小説」、42頁)

 

  謎の解決は、シャーロック・ホームズの物語であれ、これと妙に似ているジークムント・フロイト精神分析であれ、本能に対する理性の勝利、無秩序に対する秩序の勝利を高らかに宣言して読者に最終的な安心感を与える。ミステリーが大衆向けの物語――小説、映画、あるいはテレビのメロドラマなど、形式は何であれ――の定番となっているのはこのためである。

(「ミステリー」、51頁)

 

 ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何ものかを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」として持っているものを「感触」として伝えたということだ。「異化」とは、つまるところ「独創性」の同義語である。

(「異化」、81頁)

 

 登場人物は、おそらく小説中の単一の構成要素としては最も重要なものである。たとえば叙事詩のような他の形式の語りや、映画のような他のメディアも、物語を伝える上では劣らないが、人間の本性を描くときの豊かな色合い、心理的洞察の深さにおいて小説に勝るものはない。

(「人物紹介」、97頁)

 

 労働階級の生活を小説で忠実に描くことの困難のひとつは(そしてこれはヴィクトリア朝に書かれた、善意あふれる産業小説にとりわけはっきり露呈している)、小説というジャンル自体が本来的に中産階級的な形式であって、したがってその語りの声も、言い回し一つひとつに中産階級的な偏向を露呈してしまいがちだということである。

(「実験小説」、148頁) 

 

ある状況に関する事実と、その状況についての登場人物の理解が食い違っていることに読者が気づくとき、「劇的アイロニー」と呼ばれる効果が生まれる。あらゆる小説は、本質的に無垢から経験への移行を描いたもの、あるいは見かけ上の世界の裏にひそむ現実の発見を描いたものだと言われている。とすれば、この文学形式の至るところに文体的、あるいは劇的アイロニーが見られるのは驚くに当たらない。

(「アイロニー」、243頁) 

  こういう明晰な人が小説を書いてうまくいくのだろうか、と思ってみたりもするのだが、言わずと知れたこと、著者は「イギリスにおけるコミック・ノベルの第一人者」(「訳者あとがき」310頁)である。コミック・ノベルの、というところに「なるほど」と思わずにいられない。いずれ読んでみたいと思う。なお、著者によれば、コミック・ノベルとは「英国=アイルランド的な小説」(153頁)であるとのことだ。

 「序」において著者は小説が「本質的に修辞的な芸術」だと述べている。「すなわち小説家や短編作家は、読書をしている間だけある世界観を共有してほしいと説得を行っていると考えられる」(11頁)。「説得」するための弁論術=レトリックがどのように駆使されているかに正しく目が向けられれば、その作品をその作品たらしめている核心とも言うべきものを掴まえることができる。そのことを鮮やかに示してみせている本書は、実のところは「読書行為の技巧」とはどういうものかを教えてくれているのでもあるだろう。

 

 4月2日、Vanessa Paradis ヴァネッサ・パラディも動画を投稿し、医療従事者への感謝を表明した。"Merci pour tout"「すべてのことにありがとう」。

www.youtube.com

『愛人 ラマン』/ジャン=ジャック・ゴールドマンの応援歌

『愛人 ラマン』表紙

 『愛人 ラマン』、マルグリット・デュラス原作、高浜寛漫画、リイド社、2020年

 右開きでフルカラー、日仏同時発売だから、これはBDと呼んでいいのだろうと思う。

 私が個人的に驚いたのは、「あとがき」に書かれ(裏帯にも載せられ)ている次のような言葉だった。

 私にとって『ラマン』は特別な本だ。いや、多分私にとってだけでなく、思春期にこの本を読んだ文学を愛する全ての女性たちにとって、きっと特別な本だ。皆自分と仏領インドシナの少女を重ねながら成長したのではないかと思う。最初の恋や、その次のいくつかや、だんだん手に負えなくなってくる人生を持て余しながら、皆たびたびデュラスの事を考えたのではないか。そして思う、「私は、何歳で年老いたのだろう?」

(156頁)

  そうか『ラマン』はそういう本でありえたのか、ありえるのか、ということを想像してみたこともなかったので、ただ素朴に「なるほど」と思う。原作はデュラスの癖のある書きぶりゆえに、決して読みやすいものではないと思うのだけれど、そうした壁を突き抜ける力を持っているということなのだろう。

 本書を読み始めた最初は、ジャン=ジャック・アノーの映画にえらくよく似ているのではないかとやや戸惑うが、これはつまりあの映画がそもそも原作にずいぶん忠実だったということだろう。読み進めてゆくうちにそのことが次第に気にならなくなるのは、作者が物語を十分に咀嚼したうえで、主人公の内面をしっかりと描き出しているからだと思う。

 デュラスの『愛人』はタイトルとは裏腹に、決して中国人の「愛人」との関係だけを語った作品ではない。母と二人の兄に対する愛憎と心の葛藤も大きな比重を占めており、その意味でもう少し全体的な自伝であるし、『愛人』は70歳になる作家が、50年以上前の過去の記憶をいかに語ることができるかというその実験的試みでもあっただろう。一方で高浜寛は、先の「あとがき」にも見られるように、明確に恋愛の物語に焦点を絞って物語を再構成している。したがって、家族は基本的に「愛人」との関係においてのみ扱われているし、払い下げ地の話もわずかに触れられるに留まっている。

 そのことによって、ここでは主人公と相手の男との関係が一つの物語として原作よりはるかに鮮明に描かれており、私は、『愛人』とはこういう話だったかと再発見するような気持ちで読み終えた。植民地に暮らす15歳の白人の少女が、金持ちの中国人を「愛人」とする。青年は彼女を愛してはいるが、父親の意向に歯向かうだけの意気地はない。青年は結婚することとなり、少女もまた別れを受け入れるが、フランスへ帰国する船の中で、自分の本当の気持ちに気づかされる……。性愛と金銭、自立と従属といったテーマを巡るこの作品の骨格にあるのは、紛れもなく少女の成長の物語であり、すべての成長の物語がそうであるように、成長は幻滅を大きな代償として得られるものとなる。「年老いる」とは、その幻滅のことに他なるまい。

 1984年に出た原作は発表当時にスキャンダルをもたらした(その後の映画のお蔭もあって日本でもよく売れた)が、それももう優に30年以上も昔のこと。高浜寛によるこの漫画は、そのような表面を引き剥がしたところに、この『ラマン』という作品が持っていた普遍的なものを鮮やかに掬い取り、それに繊細で美しい形を与えてみせた。そんな風に言っていいのではないだろうか。

 

 ジャン=ジャック・ゴールドマン Jean-Jacques Goldman は、最近は表舞台に顔を出さないが、貧しい者への無料の食料給付を行う Restos du cœur と、それを支える芸術家の活動 Les Enfoirés に長年貢献したことから、フランスでは圧倒的な人気を保つカリスマ的存在。そんな彼が3月末に動画を公開し、自身の歌 "Il changeait la vie"「彼が人生を変えてくれた」 の替え歌で、現在のコロナウイルス災禍にあってそれぞれの現場で働き続ける人たちに感謝を捧げている。"Ils sauvent nos vies"「彼らが私たちの人生を助けてくれる」。

www.youtube.com

 

『大学教授のように小説を読む方法』/-M-「セラピー」

『大学教授のように小説を読む方法』表紙

 トーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法 増補新版』、矢倉尚子訳、白水社、2019年

 恥ずかしながらこの本の存在をずっと知らずにいた。仏文だからというのは言い訳にもなるまい。ま、そんなことはどうでもよく、この本はたいへん面白く読めるので、日本でもよく読まれてきたというのも、おおいに納得される次第だ。本書は想定読者からの問いに答える形の気さくな会話体で書かれているが、調子を切らさずに読ませるのには、淀みない訳文の上手さが大いに貢献している。

 本書で著者が示してみせるのは、大きく言って象徴読解と間テクスト性である。そのことは章題にはっきり表れている。幾つか拾ってみよう。「旅はみな探求の冒険である(そうでないときを除いて)」「疑わしきはシェイクスピアと思え……」「……さもなければ聖書だ」「ただの雨や雪じゃない」「すべてセックス」「セックスシーンだけは例外」「地理は重要だ……」「季節も……」といった具合だ。

 文学作品に書かれている多くの事柄は、それを何かの象徴として読むことができる。人物や物語はいつでも個別的で具体的なものだけれども、その人物や行為を我々が「理解」し、それに「意味」を与える時には、それを象徴として解釈していることになる。本書では英米の作品が中心に扱われているので、あえてフランス文学にひきつけて、誤解を恐れずに煎じ詰めるなら、たとえばカルメンは自由の、ラスティニャックは野心の、ボヴァリー夫人は反抗の、ナナは退廃の、『女の一生』のジャンヌは忍従の象徴だと言いうるだろう。そうした大きな話だけではなく、個別の場面や行為もたえず、本来の意味とは別の次元の解釈を喚起しうるだろう。

 ただし象徴の解釈は一つに限定されることはない。一元的な意味に還元されるならそれはアレゴリー(寓話)だと著者は言う。「象徴によって示されたものはひとつの主張にはまとめにくく、さまざまな意味や解釈を含んだ一定の領域を指していると考えたほうがいいだろう」(140頁)。本書では冒険、食事、飛行、怪物、地理、季節などの象徴的解釈が、具体的事例に即して解説されている。

 間テクスト性に関しては、教養のない私にはなかなか実践できないものだけれど、著者の主張は明確である。その要点は「この世にストーリーはひとつしかない」(55頁)にまとめられる。「そのストーリーは昔から存在し、どちらを向いてもまわりにあふれていて、われわれが読んだり聞いたり見たりする話はすべて、その一部なのだ。」作者が無意識的に反復している場合もあれば、意識的に過去の作品を下敷きにしている場合もあるだろう。いずれにしても、「今読んでいるテクストが他のテクストと呼応する可能性を意識すればするほど、私たちは多くの類似点や関連に注目するようになり、テクストは生気を増していく」(58頁)。特に英米の作家にとって主要な源泉となるのは、言うまでもなく聖書であり、ギリシャローマ神話であり、あるいは童話であり、そしてなかんずくはシェークスピアであるだろう。

 象徴にしても過去のテクストとの関連にしても、読者が気づかなかったとしても何ら問題はない。ただ、そうした要素に気づくことができれば、「小説の理解が深まり、より複雑な意味を愉しめるようになるはずだ」(59頁)。そう述べて、著者は読者に能動的な読解を薦めるのである。

 この、読書は能動的な行為であるということを、著者は繰り返し述べて強調している。「登場人物は作家の空想の産物であり――読者の空想の産物でもある。文学上の登場人物は、この二つの強い原動力によって造られている」(116頁)。「意義、シンボリズム、テーマ、意味など、登場人物とプロット以外に私たちが物語から引き出すものはすべて、私たちのイマジネーションが作家のそれと呼応して初めて気づくものばかりだ」(165頁)。

私たちはとかく作家の業績だけを称賛しがちだが、じつは読むという行為も多大な想像力を要するのだ。私たちの創造力や独創性が作家のそれと出会ったとき、私たちは作家の意図を読み取り、作家が与えた意味を理解し、その作品を自分でどう使おうかと考える。(略)だから、創造的な知性と交感してみよう。本能の声に耳を傾けて。あなたがテクストから何を感じるかに注意を払おう。きっと何か意味があるのだから。(148-149頁)

 だから読書という行為は個人的なもの、個別的なものである。当たり前のことだけれど、誰も他人に代わりに読んでもらうわけにはいかないし、十年前と今とでは同じ本でも読み方は大きく異なるだろう。唯一正しい読み方があるわけではない。だから、著者は最後に、自分の読解に自信を持つようにと読者を励ましている。

(前略)私はあなたではないし、あなたにとって大変幸運なことに、あなたも私ではない。『パイの物語』や『嵐が丘』や『ハンガーゲーム』をあなたと同じ読み方で読む人間は、この世にほかにひとりもいない。残念ながら学生たちには、文学作品について自分の考えを言う前に弁解したがる者が多すぎる。「これってっただの私の意見なんですけど、でも」とか、「たぶん僕が間違っていると思うけど、でも」とか、やたらに言いわけをするのだ。謝るのはやめなさい! なんの役にも立たないばかりか、見くびられるだけだ。知的に、大胆に、自分の読解に自信を持とう。それがあなたの意見なのだし(ただの、ではない)、読解が間違っている可能性がないわけではないが、学生たちが思うよりはるかに少ないものだ。というわけで、私の最後のアドバイスはこれである。自分が読む本を自分のものにしなさい。(343-344頁) 

 いい先生だ。こんな風に学生に語りかけられたらと思う。

 この本はアメリカの多くの高校で課題図書として使われたというが(そのことに著者自身が驚いたらしいが)、十分に納得できることだ。ここには古臭い教養主義的な、あるいは(もっと悪い)道徳教育的な鬱陶しさはまったく存在していない。そうしたものを抜きにしながら、ただの娯楽として以上に実り豊かな体験として読書という行為があることを、実に説得的かつ軽快に語ることに成功している。そこに本書の一番の魅力があるだろう。

 読書は、読み手の想像力によって成り立つ創造的な行為であること。そのことを、私も非力ながらに訴え続けていきたいと思う。

 

 引き続き、-M- こと Matthieu Chédid のアルバム 『無限の手紙』 Lettre infinie (2019) より、"Thérapie"。thérapie と terre Happy が掛詞になっている。

www.youtube.com

Souris à la vie

Quand tu croises le Bonheur

Si vite arrivé, si vite reparti

Joue plus au chat, à la souris

Cours plus après le bonheur

Quand il est devant toi

Qu'il te sourit

Voilà ma seule thérapie !

("Thérapie")

 

人生にほほ笑め

〈幸福〉とすれ違う時に

急いでやって来て、すぐに去っていくから

もっと追いかけろ

幸福を求めて駆けるんだ

そいつが目の前にあって

あんたにほほ笑んでいる時に

それが俺の唯一のセラピーさ! 

(「セラピー」)

ドレフュス事件を思い出す/セルジュ・ゲンズブール「Sea, sex and sun」

ゾラ『時代を読む1870-1900』表紙

 上に立つ者が不正を行い、それを隠蔽しようとすることで下の者が犠牲を被る。そうしたことが今の世の中に起こっているというのなら、仏文学者たるもの、そういう話はよく知っていると言わなければならない。ドレフュス事件のことだ。

 軍人アルフレッド・ドレフュスは無実の罪で有罪宣告を受け、流刑として南米ギアナに送られた。より重要な問題は、後にエステラジーが真犯人であることが発覚したのに、彼が裁判の末に無罪とされたことにあった。

 なぜ無罪判決が出されたのか? エステラジーの罪を認めること、それはドレフュスの有罪判決が誤りだったと認めることであり、そうなればそこに責任問題が発生する。それを嫌った陸軍の上官たちは、エステラジーを無罪とし、真実を闇に葬ろうとしたのだった。

 1898年1月13日、エミール・ゾラは新聞『オロール』紙に「共和国大統領への手紙」を発表。事件にかかわった者たちを「私は告発する」の言葉で弾劾した。ここでは、事件後に陸軍大臣となったビヨー将軍に対する批判を読み直そう。真実を告げるピカール中佐の調査結果を受け取った後の彼の反応について述べられている。

 ここには、苦悩に満ち満ちた心理学的瞬間があったにちがいない。思うに、この時点でビヨー将軍は事件にまったくかかわりをもっていなかった。彼は何も知らずに大臣の座に就いたわけであるから、真実を明るみに出そうと思えばできたはずなのである。しかし、彼は、あえてそれを行おうとしなかった。おそらくは世論を恐れる気持ちからであったのだろう。また確実に、参謀本部全体、ボワデッフル将軍、ゴンス将軍とその部下たちを見殺しにすることへの恐れがあったにちがいない。しかし、彼の良心と、彼が陸軍の利益と信じたものとのあいだの葛藤の時はほんの一瞬にすぎなかった。この瞬間が過ぎ去った時、事はすでに手遅れであった。彼は完全に事件に巻き込まれ、その当事者となったのだ。そして、この時から、彼の責任は重みを増す一方であった。彼は、ほかの人々が犯した罪まで背負い込み、ほかの人々と同じぐらい罪人となった。むしろ、ほかの人々以上の罪人というべきかもしれない。なぜなら、彼は正義を行うことのできる立場にありながら、実際のところ、何もしなかったからである。こんなことがあってよいものだろうか! ここ一年来、ビヨー将軍、さらにはボワデッフル、ゴンス両将軍がドレフュスの無実であることを知りながら、この恐るべき事実を彼らだけの胸にしまい込んできたのだ! こうした人々が、夜ともなれば安眠をむさぼり、愛する妻子に囲まれて暮らしているというのだから!

エミール・ゾラ「共和国大統領フェリックス・フォール氏への手紙」、『ゾラ・セレクション 第10巻 時代を読む』、小倉孝誠、菅野賢治編訳、藤原書店、2002年、258-259頁)

 自らの保身のために、あるいは自身の属する組織の秩序を乱さないために、真実を隠蔽すること。それは許されるべきではない行為であり、ゾラの告発の言葉はいかにも容赦ないものだ。もちろんゾラは本気だった。彼はこの告発によって、自分が軍に対する名誉棄損で訴えられることを覚悟していたし、現にそのようになる。それでも作家としての使命感ゆえに、自らの社会的生命を賭して告発することを選んだのだ。

 そのゾラの決然たる姿勢は立派で称賛に値するものだけれども、しかしここで、私にとってはビヨー将軍の惰弱さも決して他人事ではない、ということを述べておかないといけない。そうでなければゾラの尻馬に乗るだけのことになろう。虎の威を借る狐というやつだ。

 もし私がビヨーのような立場に置かれたのだったら、私はどのように行動できただろう。できるだろう。その自問に対する答は、はなはだ心もとないものだと認めざるをえない。黙っていることは簡単だ。知らなかったという言い訳はいつでも可能だろう。正義という言葉は美しい。だが掛かっているのは自分の生活であり、あるいは身内のそれでもあるかもしれない(年を取るというのは難儀なことだ。若い時には分からなかったこと、分かろうとしなかったことが、今ではよく分かる)。

 べつに私はビヨー将軍(と、彼が代表しているもの)を擁護しようというのでも、そうしたいのでもない。「正義を行うことのできる立場にありながら、何もしなかった」のであれば、その罪は咎められるべきなのだ。ただ、だからこそ惰弱な私は、自分がそのような立場に立つことを怖れ、我が身がそのような状況に置かれることのないように願うのである(その保証はどこにもない)。それ以上のことを言うことは、今の私にはできそうもない。

 なのでもう一度、ゾラの言葉に真摯に耳を傾けたい。

以前にもまして熱のこもった確信とともに、ここに繰り返します。真実は前進し、何ものもその歩みを止めることはないであろう、と。事件は、今日ようやく始まったばかりです。今日ようやく、人々の配置が明らかになったからです。つまり、一方に、光明がもたらされることを望まない罪人たち、他方に、光明がもたらされるためならば命さえ惜しまない正義の人々。すでに別のところでも述べたことを、ここに繰り返し申し上げましょう。真実というものは、それを地中深く埋め込もうとすればするほど、鬱積し、爆発力を持つようになるものである。そして、それが実際に爆発する時、ありとあらゆるものを吹き飛ばさずにはおかないような力を蓄えるようになるものである、と。

(同前、267頁) 

  私は、自分の学問を空疎なお飾りにしたくないし、そうしてはいけないと思う。口ではヴォルテールやゾラを称えていながら、自分の行動が伴わなければ、そんな学問に意味はないし、それは学問に対する冒涜になるかもしれない。だとすれば、どうすれば本当に学問を自らの血肉とすることができるだろう。ゾラの言葉を読み返しながら、そうしたことを考えている。

 

 いささかやさぐれた気分なので、セルジュ・ゲンズブールの "Sea, sex and sun"。INAのアーカイブより、1978年の映像。さすが、という言葉しか思いつきません。一緒にいるのはミッシェル・コロンビエ。

 t の音で韻を踏むのだけれど、そこで出てくる単語が bakélite とか hit であるところ、天才と呼ぶしかない。

 www.youtube.com

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Vingt ans, dix-huit

Dix-sept ans à la limite

Je ressuscite

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

Tu es d'la dynamite

 

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Me surexitent

Tes p'tits seins de bakélite

Qui s'agitent

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

C'est sûr, tu es un hit

("Sea, sex and sun")

 

Sea, sex and sun

太陽は天頂にある

二十歳、十八

ぎりぎり十七歳

俺は生き返る

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

お前はダイナマイトさ

 

Sea, sex and sun

太陽は頂点にある

俺を興奮させる

ベークライト色のお前の小さな胸が

揺れているぜ

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

確かに、お前はヒットさ

("Sea, sex and sun")

『フランス文学小事典 増補版』/-M-「大きな馬鹿なガキ」

『フランス文学小事典 増補版』表紙

フランス文学小事典 増補版 | 語学 | 朝日出版社

 岩根久他編『フランス文学小事典 増補版』、朝日出版社、2020 年

が刊行されたのでご報告。めでたいことだ。初版は赤い表紙だったのが、涼しい青色に変更されている。

 本書は、2007 年に刊行されたものの増補改訂版。帯裏には「コンパクト・サイズでありながら、作家数 279、作品数 171、事項数 85。作家・作品、事項、どこからでもすぐ引ける!」とある。実は私は「執筆者」の一人なので、なにを言っても手前味噌になるけれど、実際、B6 判変型という小さなサイズのわりに、内容はぎっしり詰まっていると思う。

 ぱらぱら繰っていると、執筆していた頃のことがあれこれ思い出されてくる。楽しくもあり、なにかと辛くもあった頃でした。刊行から 13 年経ったと聞くと、まことに月並みながら、ずいぶん時が経ったものだとしみじみ思う。

 ところで、改訂にあたって「新しく 8 項目を追加」と書かれているが、何が追加されたかまでは書かれていないので、ここにその 8 項目を挙げておこう。五十音順。

・ヴォージュラ(文法学者、17 世紀)

・『社会契約論』(ルソー、18 世紀)

エメ・セゼール(20 世紀)

・『ナナ』(ゾラ、19 世紀)

・ナラトロジー(20 世紀)

フレデリックミストラル(19 世紀)

パトリック・モディアノ(20-21 世紀、2014 年ノーベル文学賞

クロード・レヴィ=ストロース(20 世紀)

 以上、作家 5、作品 2、事項 1 の 8 項目という次第。

 いささか悲観的なことを記せば、このような事典を作ることは、これからの時代には(人的にも経済的にも)ますます難しくなってゆくだろうと思う。一方で、こういう本が書店の棚にあることは、単に狭い仏文業界にとってだけでなく、広く日本の出版文化にとっても意味のあることではないかと、大げさかもしれないけれども思わないでもない。再版を決心してくれた出版社に深く感謝したい。

 「フランス文学」をその全体において把握したいと思う人が、今の日本にはたしてどれくらいいるのか分からないけれど、生まれ変わったこの『小事典』が誰かのお役に立ちますようにと願ってやみません。394 頁、値段は 2,500 円+税となっています。

 

 -M-こと Matthieu Chédid  マチュー・シェディッドのアルバム Lettre infinie 『無限の手紙』(2019)より、"Grand petit con"「大きな馬鹿なガキ」(適当な訳)。クリップはミッシェル・ゴンドリーによる。

www.youtube.com

Quand je vois

Dans tes yeux d'enfant

Que je deviens con

Tout petit

Tellement chuis un grand

Grand petit con

("Grand petit con")

 

お前の子どもの目の中で

僕が馬鹿になるのを見る時

とても小さい

あまりにも 僕は大きな

大きな馬鹿なガキさ

(「大きな馬鹿なガキ」) 

『赤と黒』について今思うこと

『赤と黒』下巻表紙

 スタンダール赤と黒』、小林正訳、新潮文庫、上下巻、1957-58年(上巻、2017年104刷、下巻、2019年88刷)

 今、「『赤と黒』は本当に傑作なんですか?」と聞かれたら、どう答えよう。

 ひとつ言えることは、スタンダールは職業作家ではなかったということだ。それはつまり、彼にとって「売れる」ことは至上命題ではなかったし、実際問題としても売れなかったわけだ。言い換えると、彼には「読者」がよく見えていなかった。少なくとも読者第一で小説を書いていたわけではなかった。この点で彼はバルザック、ゾラ、モーパッサン型の作家とは明らかに違い、むしろフロベールに近いかもしれない。

 読者第一ではなかったことの結果として、彼はとにかく自分の好きなように小説を書いた。そこにこそ彼が時代を超越できた理由もあるに違いないが、しかし一方で、彼の作品がいわば「商品」としては不完全なものであるのも明確な事実であろう(と、今の私は思う)。端的に言ってムラがあるし、さらに言えば冗長さを免れていない。『赤と黒』でいえば、第2部のマチルドとの恋愛の後半部(フェルバック夫人相手に恋文を送るあたり)は特に、作者が面白がっているのはよく分かるが、いささかやり過ぎだと言っていいのではないか。

 それはそれとして、今の私にとって『赤と黒』の肝は、なんといってもレーナル夫人(と新潮文庫ではなっているのでその表記に従っておくが)狙撃以降の展開、つまりは第2部第35章以降(ちなみに言うと、それはモームが『世界の十大小説』の中で「過ち」と見なして理解しなかった部分)である。レーナル夫人による告発の手紙によって侮辱を受け、また自分の将来が台無しになったと思ったジュリヤンは闇雲に故郷に取って返し、教会で彼女をピストルで撃つ。彼は「牢獄」(原文でも prison と書かれているが留置所であるべきか)に入れられ、死刑を覚悟する。

 それから何が起こるのか? 牢番からレーナル夫人が生きていることを知らされたジュリヤンは、あつい涙を流して喜び、そして「犯した罪を後悔しはじめ」る(下巻、454頁)。同時に、結婚目前だったマチルドに対する関心は一気に冷めてしまう。彼の心の中では「野心が死んで、そのあとからもうひとつ別の感情が生れ」る(482頁)。彼はそれを「後悔」と呼ぶが、すなわち、彼はここに至ってレーナル夫人に対する自分の愛情を(ようやく)自覚するに到るのだ。

 (モームに分かってもらえるように)この展開をもっと噛み砕けば、以下のように理解できるだろう。ジュリヤンは衝動に駆られてレーナル夫人に対して復讐を企てるが、自分がそのように行動してしまったことがつまりは彼女に対する「裏切り」であったことを、彼は事後的に理解するのである。もし彼が彼女を信じていたなら、告発の手紙に裏があることを疑いえたはずだ。そうせずに衝動に身を任せてしまったことが彼の過ちであり、彼が言う「罪」とは、この「裏切り」に、彼女を疑ってしまったということにあるのだと言えるだろう。一方で、レーナル夫人が死んではいなかったことを知った時に湧いて出てきた無上の喜びが、彼に自分の真の心の在り所を教えることになった。その意味では、夫人狙撃の顛末は、ジュリヤンが真の自己認識に到達するために辿らざるをえなかった「試練」なのである。

 そして、そのような認識に達した彼は、死刑の判決を得た後についにレーナル夫人と再会を果たす。そこでは「ジュリヤンは、これまで一度もこんなひとときを味わったことはなかった」(520頁)、「ジュリヤンはこれほど夢中で愛したことはなかった」(521頁)と、最上級の表現が繰り返され、彼の至福が強調されている。

「(略)ふた月といえば、かなりの時間ですよ。これほど幸福なことは今までなかったと思います」

「今までになかったですって!」

「ありませんでしたとも」ジュリヤンは感激の色を見せて、そう繰り返した。「わたしは自分に向かっていうのと同じように、あなたに向って話しているんです。神にかけていいます。誇張などするものか」(523頁)

  場所はじめじめした地下牢であり、2ヶ月後には死刑が待っているという、およそ考えられる限りで最悪に等しい状況である。そこにおいて無上の幸福が成立するという逆説にこそ、まさしくスタンダールの真骨頂があると言うべきだろう(『パルムの僧院』のファブリスが牢獄で幸福を知るのと相似している)。そのような悲惨な状態で幸福に浸りきるということは、冷静に考えるならばおよそ現実には起こり得ないことだ。その現実には起こり得ないはずのことが、ここにおいて実現している。そこに、文学によってしか実現できない、まさしく文学的真実というものがあるのではないか。そして、その奇跡的状況に達するためにこそ、ここまでの(あまりに)長い道のりが必要だったのだ。ジュリヤンと共にその道のりを辿った上で、読者がこの至福の瞬間を共有できるなら、最初に挙げた瑕疵など一切問題ではなくなるに違いない。

 疑いようもなく本作のクライマックスはこの場面であり、ここに比べたらこの後のジュリヤンの独白(第44章)など、あらずもがなという気さえする。肝心のレーナル夫人が夫に呼び戻されてあっさり帰ってしまうという展開も(本当の最後の再会への伏線とはいえ)なんとも拍子抜けな感がある(この拍子抜け感は、『パルムの僧院』でファブリスがさんざん苦労して脱獄した後、あっさり自分から牢に帰ってきてしまう時の感じと同等)。端的に言って、山場を過ぎて作者の気が緩んでいる、あるいは早く終えてしまおうと投げやりになっているという感が拭えないところではある。

 その意味で、ジュリヤンの死刑の場面もおそろしくあっさりしているので、なんとなく読み飛ばしてしまって、記憶に残らないということになりかねない。

 地下牢の悪い空気が、ジュリヤンには我慢ならなくなってきた。さいわい、死刑の執行がいい渡された日は、美しい太陽の光を浴びて、自然が若やいでいた。ジュリヤンも元気が出た。長いあいだ海に出ていた船乗りが、陸地を歩くときのように、大気を吸いながら足を運ぶことは、快い感覚だった。《さあ、申し分ない。勇気は十分ある》

 斬られようという瞬間ほど、ジュリヤンの頭が詩的になったことはなかった。かつてヴェルシーの森で過した楽しい日々の思い出が、あとからあとから、まざまざとよみがえってきた。

 すべては簡単に、しきたりどおりに行われた。ジュリヤンの態度にも、なんら気取りが見られなかった。(551-552頁)

 要するに、作者にはこういう場面を一生懸命書く気がなかった、というのが如実に窺えるような簡潔さではあるが、しかしそれでも要点はしっかり書かれている。美しい太陽、若やいだ自然、心地よい大気と、あたかも世界は祝福に満ちているかのようであり、そこにあってジュリヤンは元気と勇気に満ち、いわば生の充溢の中で死を迎えるのだ。彼はすでに出世欲、虚栄心といった、かつて心を捕えていたものの一切から解き放たれている。俗世の欲望を超越した状態で迎える死は、一種の殉教と呼びうるかもしれない。殉教とは自らの信仰のために命を捧げることだが、ジュリヤンにとってはもちろん神への信仰ではない。あえて言えばその対象は真の愛情ということになるだろう(そう言葉にしてしまうといかにも陳腐に聞こえかねないけれど)。

 もっとも、殉教といってもジュリヤンは聖人になるわけではない。彼の幸福はマチルドの犠牲の上に成り立っているが、彼はほとんど彼女を顧みないのである。恬淡とした最期のジュリヤンの姿からは、至上の幸福は無私の領域にあるかのように見えなくもないが、むしろ徹底したエゴイスムによって成り立つものだと、作者は開き直っているのかもしれない。

 いずれにしても、かくしてジュリヤンは最終的に(予想とは違った形で)一つの「自己実現」を成し遂げる。野心という世俗の欲望に捕われていた精神が、長い試練の果てにある種の超越的な境地に到る、その「成長」の記録こそが『赤と黒』という物語の骨子だと言えるだろう。


 『赤と黒』は復古王政という一時代の精神のありようを描いたということで、文学史的にはレアリスムの代表作として取り上げられる。そのことの意義はアウエルバッハの『ミメーシス』を読めばなるほどと深く納得させられる。実際、この物語は復古王政の時代にしか成立しえないという意味で歴史と密接に連関しているし、同時代の社会に対する批評性も明確であり、そうした意味においてフランス小説史において画期的なものであったことは、今から振り返れば疑いようもない。

 一方、産業革命以後の近代社会において、伝統的な身分制度から解放された個人は、各人が自分で自分の未来を切り開き、「自己実現」を目指すことをいわば余儀なくされることになる。地方の材木商の息子ジュリヤン・ソレルが一途に「成り上がる」ことを目指すという『赤と黒』の物語は、まさしく近代社会において個人の背負う「宿命」を、一個の典型として描き出したという意味において普遍的であり、その原型としての意義は今も決して失われていないだろう。その普遍性は『ゴリオ爺さん』や『感情教育』より広いものがあると言えるかもしれない。

 そうしたことはすべてその通りである。しかしそのような物語を通して作者スタンダールが描きたかったことの核心は、真の幸福とは「社会的な秩序から完全に切り離された状態」(野崎歓『フランス文学と愛』、講談社現代新書、2013年、99頁)にありうるということだったのかもしれず、その究極の理想を想像世界において掴み取らんがために、彼は飽くことなくペンを握り続けたのだ。

 そして、今の私にとってはそのことこそが最も意味を持っているように思われるのである(そして、そのことの意味を自問しているのでもある。なんだかややこしいようだけど)。端的に言えば、時代性または歴史的意義を云々するより前に、今の私たちにとって作品が持つ(持ちうる)意味と価値をきちんと言語化することが大事なのではないか、というのがこの2020年時点の私の立ち位置だということになるだろうか。

 スタンダールが考えていた Happy few の中に、今の自分が加えてもらえるか分からないし、あまりその自信もないけれど、とりあえず以上が、今の私が『赤と黒』について言えることのあらましです。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/-M-「スーパーシェリ」

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』表紙

 これも「読んだ」という記録に。

 ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、田口俊樹訳、新潮文庫、2014年

 原作発表は1934年。道路沿いの安食堂に飛び込んだ青年フランク(語り手)は、ギリシャ人の店主に店で働かないかと声をかけられる。フランクは妻のコーラに目をつけ、二人はすぐに恋仲になる。不愉快な夫、しがない暮らしに我慢できない二人は、亭主の殺害を計画するが……。

 単線ながら先行きの読めない展開や、地方検事との丁々発止のやり取りといったところが、いかにも映画的に感じられる。もっとも、そもそも作者がハリウッドで映画脚本などを手掛けていたことを考えれば自然なことかもしれず、何度も映画化されるのもさもありなんという気がする。

 基本的にはろくでなしの話でありながら、それでもこの主人公は憎めないように感じられる。それはどうしてかと考えていて思い当たるのは、これは計画犯罪の物語であるが、実は主人公の行動はぜんぜん思い通りに進行していないということだ。最初の計画は通りすがりの猫によって狂わされ、二度目の計画でもフランク自身が予定外の怪我を負ってしまう。そして地方検事や弁護士たちは彼ら自身の勝手な思惑で事件を操り、フランクとコーラは彼らに弄ばれているにも等しい。最後に到るまで二人は外的な要因に左右されるがままであり、それゆえに結末はいわば悲劇的な様相を帯びるのだと言えるだろう。

 言い換えると、本作において個人は無力であり、運命に翻弄されるばかりの存在として描かれている。その人間観に見られる悲観主義が、あるいは30年代アメリカの雰囲気を映し出しているのかもしれないと思う。

 

 -M-こと Matthieu Chedid マチュー・シェディッドの2019年のアルバム『無限の手紙』Lettre infinie より、「スーパーシェリ」"Superchérie"。相変わらずの頭。

 とりあえず最初の2節のみ翻訳。

www.youtube.com

Ma muse m'aimante

M'amuse et me hante

Elle est toujours elle-même

C'est bien pour ça que je l'aime

 

Tellement addict

Que je suis accro

Accroché à ses ailes

J'suis pas beau !

Ma super chérie...

("Superchérie")

 

僕のミューズが僕を愛して

僕を楽しませ、取り憑く

彼女はいつも彼女自身で

だから僕は彼女が好きさ

 

あまりにも溺れて

僕は恋している

彼女の翼につかまって

僕は美男子じゃない!

僕の最愛の人……

(「スーパーシェリ」)