えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

目ざめ

veil, 1883
英訳本の目次を見ていて、真作ながらタイトルを見ても内容を思い出せない(!)
作品があって、今日はそれを読む。初出は2月20日のジル・ブラース。
『マドモワゼル・フィフィ』2版に収録。
結婚して3年を静穏に、霧深い田舎に暮らした妻が一人療養のためにパリに出てくる。
華やかな社交界に慣れ、取り巻きの男性もできる。一人は洒落男の「キャプテン・フラカス」
もう一人は内気な「忠実な羊」君。「羊」君は始終彼女のそばにくっついている。でも
彼女は彼を愛しているとは思っていない。
ところがある日、彼女は夢を見る。夢の中で彼女と「羊」君は愛し合っていて、
目ざめてからも彼女はその記憶を忘れられない。その日から彼女は彼の存在を無視できなく
なり、遂には彼を愛していると思うようになる。
ところが感極まって別れ(内気な羊君はついては来ない)、一人部屋に帰ると、
そこに待っていたのは色男「フラカス」君である。当然、彼は熱っぽく誘惑にかかる。

彼女は彼の言葉を聞きながら返事もせず、別の男を思い、その男の言葉を聞いていると信じ、その男をそばに感じ、一種の幻覚の内にあった。彼女は彼しか目にしておらず、世界には他の男が存在しているということを、もう思い出しもしなかった。そして耳があの「愛しています」の言葉に震えた時、彼が、別の男こそがそれを口にし、指先に口づけしたのであり、彼こそが先ほどの馬車の中でのように彼女の胸を抱き、彼が唇に勝利に酔った愛撫を与えたのであり、彼女が抱きしめ、手をからめ、ありったけの思いを込め、興奮に燃える体で呼びかけたのは、彼だった。
 この夢から覚めた時に、彼女はおそろしい叫び声をあげた。(プレイヤッド1巻749ページ)


勘違い、取り違えであって、エロチックな笑い話、ではある。こういうのもM君お手のもののジャンルだけれど、モーパッサン独自の「無意識」心理学のほうにも注目したい。フロイト以降のタームに慣れている目には、しばしば19世紀的心理分析には違和を感じたりするもので、「夢」の扱い方なんかも今からすると直接的で安直な感じもしないではない。しかしこの「違和」ゆえに、おかしいと即座にしりぞけてしまっては、面白くはないというものだろう。
翌日、彼女は田舎に帰る。次の夏に「羊」君が訪ねてくる。

 彼女は動揺も後悔もみせずに彼を迎え、突然に理解したのだった。自分は夢の中以外では決して彼を愛してはいなかったのであり、ポール・ペロネルがその夢から荒々しく彼女を目覚めさせたのだということを。
 だが青年は今も彼女を熱愛しており、帰り道に思うのだった。「女性というものは本当に奇妙で、複雑で、説明のつかないものだ」(749ページ)


落ちの台詞は典型的な男の見方というもので、そんなに効果的とは言えない。
(もっとも、「相対化する視点」の存在には十分意義がある。)
興味深いのはむしろ彼女の内省のほうだろう。「目覚めた」と悟った時にこそ
彼女は真に「目覚めた」という点がまず一つ。すべては「夢」だったのだ、
という結論のあり方が、もう一つ。
この一文はなかなかどうして含蓄が深いと思うのだけれど、どんなものだろうか。