えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

妻を帽子とまちがえた男

お茶を濁すわけでもないけれど、他の読書の話。
いわずもがな、オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』
高見幸朗 金沢泰子 訳、晶文社、1996年(18刷)。
購入したのはそれこそ10年近く前のことで、ずっと読まずにいて
ふと手に取って読み出したら、あっという間に読了。
そういうことは時々あるもので、もちろん買ってすぐに読めばいいんだけど
買ったはいいが「積ん読」になってしまう本というのはどうしてもあるわけで、
本との出会いは結局はいつでもご縁なのだと思うのです。
なことはともかく、実によい本であるのは言をまたない。モーパッサン愛好家とて
こういう本は素晴らしいと思う。人間に対する信頼と愛情が貫かれているということ。それにつきる。
ただ私が強調したいこととは、作者が「人間的」であろうとするときに持ち出されてくるのがしばしば文学
作品であるということの意味だ。

 したがって、患者から学んだことと生理学者が言うこととのあいだには、大きな溝がある。これに橋をわたす方法はないのだろうか。たとえそれが絶対的に不可能だとしても(どうもそのようだが)、サイバネティックスの概念を越えた何かがあるのではないだろうか。根本的に内面的なもの、つまりプルースト的な追想を理解するのに、サイバネティックスの概念よりも適切な概念はないのだろうか。機械的なシェリントン的生理学ではなくて、内面的な、プルースト的な生理学はないのだろうか?(257ページ)


今、「プルースト的な生理学」というようなことを言える医学者がどれほどいるのだろうか、と思いもする。
楽観的な私は、少なからずいるのだろうと思う。
だけれども悲観的な私は、彼らはこの言葉の意味を、そもそも理解するだろうか、と考えもする。