えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

酒だる

Le Petit Fût, 1884
今日はまた初出日で選ぶ。4月7日のゴーロワ紙、『ロンドリ姉妹』所収。
モーパッサンの短編の中でも有名なものの一つ、とフォレスチエも記す。
新潮文庫では1巻、典型的なノルマンディー農民ものの一編だ。
シコの親父(Maître Chicot は宿屋の主人なので。青柳瑞穂は「シコとっさん」)と
マグロワールのおっかさん(la Mère Magloire, 青柳訳は「マグロワールばあさん」ま、72歳だから
もちろん、ばあさんなんだけど。)の駆け引きのお話。どっちも貪欲でけちんぼ。シコの親父は
ばあさんの土地を買い占めたいが、ばあさんはうんと言わない。そこでとっさん(の方がいいかな)
一計を案じる。毎月150フラン(trente écus de cent sous. 1エキュは5フランで、20スーで1フラン
すなわち、5フラン(100スー=1エキュ)銀貨で30枚=150フラン)をばあさんが死ぬまで払おう。その代わり
死んだら土地を俺に遺贈してくれるという契約にしようじゃないか。
すったもんだの挙句、一月50エキュで締結。(「マグロワールのおっかさんは袖の下にもう10エキュ要求した」
こういうディテールが冴えているのがモーパッサン。)

 三年が過ぎた。ばあさんはぴんぴんしていた。彼女は一日も年を取っていないように見え、シコはがっかりしていた。彼には、もう半世紀もこの年金を払っているような、自分が騙され、いんちきをされ、破産させられたような気がした。(プレイヤッド2巻80ページ)


そこでシコ親父はまた考え、次の手をひねり出す・・・。
有名な話なので以下省略。あとは読んでのお楽しみだ。
フォレスチエ先生はこの話が何故有名になったのかを自問している。社会学的、心理学的要因
(損せずに儲ける、という話はやっぱり欲望を刺激するとか)いろいろあるけれど、つまるところ
19世紀末の小市民の心性をよく描き出しているからだろう、と。
それはまあその通りとしても、しかしまあモーパッサンの冷静というか平然というか素気ない
というかの筆致は見事なもので、こういう結末は好き嫌いはっきり分かれるだろうなあ
と思いもする。実にモーパッサンらしい、という印象はやはりある。なにがすごいって
ばあさんはあっけなく死んじゃうし、シコの親父には罪悪感は微塵もない。彼は
「してやった」だけのことであり、75も過ぎたばあさんがアル中でぽっくり逝っても
そりゃ自業自得だわな、てなもんである。
なかなかこうは書けない、と思う。
モーパッサンが徹底しているのは、要するに善悪の判断は作者のすることではない
という基本方針である。そして、世の中には善いこともあれば当然悪いこともある
という確然たる理念だろう。というかそもそも人間のすることは、それぞれの私利私欲
の赴くままなのであって、それ自体に良し悪しがあるわけじゃない。ただ我々が各々
の好みに応じて、あれは良し、これは駄目と判断しているだけなのである。
という風なことが、モーパッサンの短編を幾つか読んでいると感じられるところではないだろうか。
「とっつぁん、そいつはあんまりだ」という判断を下すことは当然ありうる。それは
それで一つの判断として間違っていない。ただ、そこから「こんなことを書く作者は嫌い」
と短絡的に進まないでほしいなと思うのである。その前に辛抱して、他の作品を開いてみて
ほしいと思う。そこにはまた全然違った趣きがあるに違いないから。
モーパッサンが読者に求めていることは、考えることだ。彼の提示する一つの
事例に、読者がそれぞれの判断を示すこと。そして世の中と人間と人生について思い返す
こと。つまりは「現実」を見つめなおすということ。もっといえば直視する強さを持つ
ということ。
モーパッサンを読むことの意義はそういうところにあると
真面目くさった顔で思ってみたりもする次第。
かえるに笑われるだろうか。