えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

シャーリ

Châli, 1884
モーパッサンはいろいろな趣きの作品を残したと先日記したけれど
その例として挙げてみたい作品。
「酒だる」から一週間、次にモーパッサンが書いたのがこの作品で、
ジル・ブラース4月15日。『ロンドリ姉妹』に所収。
ノルマンディーの田舎から一転、今度はエキゾチスム満点の物語で、舞台はなんとインド。
天文学の仕事でインドに赴いた語り手は、マハラジャのお屋敷に歓待される。
虎狩りや戦士の戦いの見物、バヤデールやらなにやらといろいろにもてなされた後、
ある日部屋に帰ってみると、新たな贈り物として待っていたのは「ハーレム」だった。
6人の娘たちは、なんと一番年長は8歳ほど、最年少は6歳ぐらいの女の子。

というのもあちらでは、果物は青ければ青いほどに価値があるからだ。(2巻88ページ)

はじめは困った主人公、お菓子を与えゲームをして、この「妻たち」と遊ぶことに
次第に興を覚えてゆく。ところが、

 それから、ある夜、どうしてそうなったのか分からないけれど、一番大きな娘、シャーリという名の古い象牙の彫像に似ていた娘が、本当の私の妻となったのだった。
 それは愛らしい小さな存在で、優しく、内気でありながら陽気で、やがて激しい愛情で私を愛するようになった。そして私は奇妙な風に、羞恥とためらいと、ヨーロッパ流の正義への一種の恐れと、躊躇と心配とを抱きつつ、しかしながら情熱的で官能的な愛情の念で彼女を愛したのだった。(89ページ)


幻想的な光景の中に夢のような甘美な時が過ぎるが、任務を終えた語り手はその地を去ることになる。別れの際に、彼はマハラジャから貰った貝殻を散りばめた箱を、彼女に贈る。それは彼女がとても気に入っていたもので、当地では珍しいが、ヨーロッパでは安物に過ぎないものだった。
そこで章が変わって話は2年後、再びインドの地に戻ってきた彼はマハラジャの歓待を受け、そこであのシャーリという娘はどうなったかと尋ねると・・・。
という展開。あとは黙して語らずに。
面白いのはこの物語、語り手は最初に「ロチ風の物語」と予告していること。
ピエール・ロチ風の感傷的でロマンチックな物語に対してモーパッサンは批判的だった
のだけれど、これはどうしたことだろう。そこには多少なりと、その気になれば俺だって
こういうものが書けるんだぞ、という自負があるのかもしれない。話の長さは「酒だる」
のほぼ倍で、こちらの方が断然力が籠っているようにも窺わせる。とりわけその感が
強いのは、物語の前半、「ハーレム」の娘達が登場するまでに多くの行が割かれている
ことだろう。そこでは珍しい異国の情景の叙述がなされるわけだけれど、語り手は
そこがいかに西洋と異なった特別な地であるか、「夢」のような光景であるかを語り、
そして豪奢で贅沢なマハラジャの生活ぶり、贅沢に倦み飽きた頽廃的な様子を描き出す。
もちろん19世紀的、典型的な「エキゾチスム」「オリエンタリスム」が喚起されている
わけだけれど、その点については今はおいておく。異国の幼い娘との夢幻的な恋愛を
描くにあたって、作者はその舞台となる情景を描くことに、より正確にいえば「喚起」
することに十分な注意を払う。そこで強調されるのは「非現実的」な美しさである。

私は幻想的な森の中央に本当らしくも思われないような廃墟を発見した。夢のような幻の都市の中に、驚くべきモニュメントが、繊細かつ宝石のように彫刻を施されており、レースのように軽やかで、山のように大きいのを目にしたが、これらのモニュメントは神話的で、神々しく、あまりに優美なので、女性に恋するようにその形に恋してしまうほどだった。(83-84ページ)


幼い娘との夢幻的な恋愛が、それ自体西洋的見地からして「本当らしさ」を欠くものであるとすれば、作者は最初から執拗なまでにその世界そのものの「非現実的」な性質を強調する。おそらくそうすることによって、逆説的な形で中心を成す物語の「本当らしさ」が担保されることになる。ありえないような世界においてこそ、ありえないようなドラマも自然に展開するということだ。
つまるところ、ここでは全体を通してひとつの夢物語、いわばおとぎ話が形作られている。それもまた短編小説のひとつのあり方であり、同時に短編作家モーパッサンの世界の一端を成している。
もちろん、モーパッサンの作品の中で「シャーリ」のようなものは特殊である。けれども「酒だる」につづいて、それと明確なコントラスを成すような作品を書くそのレンジの広さに、確かにモーパッサンの技量と柔軟さを認められるだろう。新聞読者を、あるいは短編集の読者を単一さで飽きさせないようにする、という配慮は明確に存在する。だがそれと同時に、それ以上に重要に思われるのは、世界は多様であること、価値観もまた多様であるということが、数多くの短編小説を通してまざまざと示されてゆく、ということだ。
世界は多面的であるということを、モーパッサンの短編小説は教えてくれる。のだと思う。