えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

クロシェット

Clochette, 1886
今日はえいやっとページを開いたところの作品。
ジル・ブラース12月21日。短編集『ル・オルラ』に所収。
間然するところのない作品というのはこういうものだろう。
時によるとモーパッサンの短編はちょっと言葉足らずというか、言うべきことを十分に言ってないのでは、という印象を抱かせもし、そういうところは間違うと「書きなぐった」と捉えられかねない。
この作品もそうで、たとえば「麗しのオルタンス」と呼ばれた彼女(後のクロシェット)の生い立ちとか、あるいは美男のシジスベールはその後どうしたのかとか、医者の話を聞き終えた少年(語り手)が何を思ったか、
は書かれない。ただ少年は「嗚咽した」とあるばかりだ。
しかしながら、あれこれ考えるとやはりこれはこれでいいのであって、「書かなくてもいいことは一語も書かない」というのが、成熟したモーパッサンの短編小説奥義ともいうべきものだったのだろう、と思うのである。
たとえば、オルタンスはただ美しい女性であったというだけでよいのであって、色男はあっさり舞台から姿を消すことで、焦点が一点に集中することになる。
また、少年がクロシェットを愛していたことは既に語られているし、二人の交流の様を詳しく語った前半部が、何も語られない結末に十分な効果を与える。
そういうことだ。
感激した医者はクロシェットをして「殉教者、偉大な魂、崇高な献身!」と声高に語るけれども、この言葉も決して作者のそれではなくて、モーパッサンはそんなに単純には読み解けない。確かにこの小さな物語は悲劇的だけれど、けれどそれだけなわけでもない。それは恋愛が崇高なものとは描かれず、色男シジスベールははっきり「卑怯者」であると言われる点にも見てとれる。自己の保身のためだけにオルタンスに無理な要求をつきつける彼が滑稽とも卑怯ともとれるなら、そんな男のために勢いで3階の窓から飛び降りてしまう彼女はどうなのか。
別の点から見れば、顔中ひげだらけのお婆さんのクロシェットが、実はかつて若い頃、たった一度の情熱に身を焦がした女性であったという(意外な)事実は、表面から見えない隠されたものが存在する、ということを告げている。滑稽な外見と、誠実かつ情熱的な内面との対比において、「真実」はどちらの側にあるのだろう。
ところで、「クロシェット」という呼び名は、障害をもった彼女の歩きぶりからつけられたあだ名(歩くときに体が揺れるのをして「鈴」のようと呼ぶ)である。そこには世間の無邪気かつ残酷な視線がある、ということを忘れないでおこう。
滑稽であると同時に悲劇的であり、日常と非日常には境界がなく、真実は曖昧で定めがたい、というようなこと。
「作者の介入」を徹底して排除するということは、単に物語に「客観性」を与える、というようなことを意味しない。
その時に意味は一元的に還元化されることを拒み、その割り切れなさ、曖昧さこそが「現実」の持つ厚みとして、簡単に言葉にできないような感情として読む者の胸に伝えられる。
きっとそういうことなんだと思う。
これからも何度でも言うだろうけれど、モーパッサンは全然簡単ではないし、単純でもない。