えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

フランス田園伝説集

放心してモーパッサンも読んでいない。ので代わりに。
ジョルジュ・サンド『フランス田園伝説集』篠田知和基訳、岩波文庫、2006(7刷)。
以前に読んだものを重版を機に読み返している最中。
民間伝承の採集というのは地方色に関心の向いたロマン主義的精神の産物なんだろう
というような意味づけは虚しくて、実にしみじみと好きなのである。篠田知和基の
多少固めの訳が語られる内容と微妙な関係を結んでいるところがいい。
たとえば、小豆洗いより怖い「夜の洗濯女」とか。

本当の洗濯女は嬰児殺しの母親の亡霊である。彼女たちが、いつまでも叩いたりしぼったりしているものは濡れた洗濯物のように見えても、近くで見ると子供の死体なのだ。それぞれ自分の子を洗う。何度も罪を重ねたときは複数の子を洗う。彼女たちを見つめたり、邪魔をしたりするのは禁物である。たとい筋骨隆々たる六尺豊かな大男でも、彼女たちにつかまったが最後、まるで靴下のように水の中で叩いたりしぼったりされてしまうからだ。(34-35ページ)

凄惨なのに滑稽なところが実に説得力がある、ような気がする。しぼられたくはないなあ。
こういうのは民俗学的やら心理学的やらに解釈というか理由づけに誘惑されやすく、
サンド自身もところどころで合理的説明を施したりはしている。しかしまあ、
そういうのを留保しておいてしみじみ想像するのがよいような気もする。
言うまでなくサンドのスタンスは近代的合理主義の精神に則っている。彼女自身は
「信じて」はいない。だけれども、彼女には農民の間に伝わる伝承に対する
理解と共感とがしっかりとある。このバランスがとてもいい。
「幻想的なもの」、迷信は、合理主義の現代においては文学の主題にはならない、
と割り切ってみせるモーパッサンとの間には、やはり世代差というものが
確かにある。しかしモーパッサンにもノスタルジーはしっかりあるのだけれど。
『愛の妖精』(かなり豪傑訳)こと『プチット・ファデット』には確か鬼火が出てきた
と思うんだけれど、そういうものを登場させることで彼女が試みたこと
というのが本作を読んでいると、理解されるように思うのである。
それはつまり、民衆の想像力の中に、自身の物語を位置づけることであって、
あるいは、物語を「現代のおとぎ話」という次元に引き上げること。
こういう志向性は、フロベールなんかにはやっぱり理解しきれないものかもしれない。
てなことはどうでもよく、本当は、冒頭の話に出てくる「馬鹿石」をみんなに読んでほしい
だけなのである。
まず石は時と場合によっては口をきく。腕利きの魔法使いならば「今晩は」と言わせることができる。

しかし石たちは頑固で偏狭なので、それ以上の言葉を教えることはできない。(20ページ)

さらに、いつもの場所に石がいないこともあって、「ちょっと散歩に」出たりするのである。

石のほうでもいずれは元の場所へ戻らなければならないことになっている。もしすぐに元の場所が思いだせなかったら困るのは石のほうなのだ。ばあいによると一年も、尻を引きずって走りまわらなければならない。これはたいそう疲れることだが、横になることを許されている場所へ戻るまでは立ったままでしか休息をとってはならないのだ。(21ページ)

こういうのは本当にすごいなあと思う。個人の想像力では、なかなかこうはいかないものだ。
石の悪口は断じて慎まねばならないのです。