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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

酔美人

荷風

これまた渋いカテゴリーを立ててしまった。
ここしばらく、荷風におけるモーパッサンについて考察中なので、以後つれづれに
記すことあれば、記していきたいと思う次第。
「酔美人」は『あめりか物語』所収の短編。初出は明治38(1905)年6月の「太陽」(11巻8号)。
で、ここで問題にしたいのは
伊狩章「永井荷風モーパッサン」『国語と国文学』1954年6月号。
古い論文だけれども、荷風モーパッサンについて突っ込んでは考えずに
とりあえず指摘しておく際には今でも挙げられ(う)る論文で、
ま、「モーパッサン荷風」を論じるには避けられないところがある。
古い論文を批判するのが主旨ではなく、あくまで検証の素材と考えたい。
さて件の論文、「アルーマ」の梗概を記した後、

この筋書だけを照合しても「酔美人」が「アルウマ」の翻案であることがわかる(34ページ)

とくる(旧字は現代表記に改める。以下同)。なるほどそうかいな、と思ってしまうところだけれど、その梗概はこうなっている。

たまたまアフリカに来たフランス人が、黒人の女アルウマに曳かれ、生来動物的な女がしばしば他の男と駆落して又帰つてくるという性癖に悩まされながら、その肉体の魅力に曳かれてどうしても別れることが出来ずに衰弱してゆくという筋―(34ページ)

これはひどい。と原作を読んだ直後の人間としては言わざるをえない。
まず上記のようにアルーマは「黒人」ではない。「動物的」とは書かれているけれど、「しばしば他の男と駆落」などしていない。原作には彼女は時々実家に帰ったとあるだけで、それが「駆落」というのは深読みというか、誤読であろう。確かに最後にアルーマは「駆落」するが、それっきり戻って来ないのである。で、語り手は彼女の家出に「悩まされ」てはいない。これはそう書いてある。西洋流の嫉妬を喚起しない、という点がここでは重要なのだ。だからして別に彼が「衰弱してゆく」ということも、別段書かれてはいないのである。
これは要するに「酔美人」が「アルーマ」の「翻案」であることを示すために、後者の内容を極力前者に引きつけて記したものであって、客観的記述とはとても言い難い。
この後にも「夏の海」の記述が「そっくり「アルウマ」の一場面にある」というけれど、これもどう考えても見当たらない。ラクダなんか出てこないのである。こうなると「官能的場面の描写」が「酷似」している、という表現にも注意してあたらなければならず、どの辺が「酷似」なのか、結局よく分からない。少なくとも「酔美人」のほうはよっぽど頽廃的な「官能」を描いているように思われるけれど、どうだろう。
大体「翻案」という言葉ほどいい加減なものはないけれど、「エキゾチックな女性との愛欲に浸りました」という命題だけをして両者が「同一」であるから、すなわちこれ「翻案」とするのは、いくらなんでも粗雑に過ぎるだろう。
そもそも、題材だけを問題にするからこういうことになるので、モーパッサンは生涯に300編の短編を書いたのである。荷風の時点でも200は優に読めたはずで、200編の中から同じ(というか、似通った)題材のものを探して、見つからないほうが稀というものではないだろうか。(付け加えておけば、1905年の時点で荷風が「アルーマ」を読んでいたかどうかも全然定かではない。)
「酔美人」にモーパッサンの影響はない、と私は言いたいのではない。直感的に言えば両者には何がしかの類縁を感じさせるものがあるだろう。だがそのことを実際に「論証」するのは全然簡単ではない、ということを知っておかなければならない。
比較文学の領野においては「影響」という概念自体、既に古いものとなっており、方法論の進展を抜きに昔の論文を批判することは、繰り返しになるけれど有意ではない、というか傲慢な所作になろう。
だけれど今現在私が知る範囲においては、「荷風モーパッサン」の問題はその後ちゃんと検証されていないように思われる。もう一度、問い返してみるのは無駄ではあるまい。
そういうことを今、やってみたいと思っている次第。
いやはや、ちと興奮して目が覚めた。