えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

青柳瑞穂にもの申す

読んでない代わりに、ふと目に入ったので。
モーパッサン短編集』青柳瑞穂訳、新潮文庫
今見ているのは1巻で、1997年37刷のものと、ちと古いけれども
多分現在も変わっていないと思うので、一言申し上げたい。問題は
「あとがき」の冒頭部分であって、いくつかの点で問題があるように思われる。

 ギ・ド・モーパッサンは、1850年に生れ、1893年に死んでいるが、その文学活動は、三十歳から四十歳までで、たった十年間、そのあいだ、三百六十編にあまる短編、中編、七巻の長編小説、三巻の旅行記、戯曲が二つに、詩集が一巻、合わせて二十九冊の作品を生んでいる。(365ページ)

新潮のこの版の初版は1971年となっているので、この「あとがき」もその時点のものと推定されることを、まず確認しておこう。
まず一文目。まず360編は明らかに260編の間違いである。どう数えても360の数は出てこない。ちなみに現在ではプレイヤッド版で確か305編。ただし時評文まがいのものが複数あるので、正確に限定はできない。
今日長編は6編と数えるのが普通。『あるパリ人の日曜日』は短編連作で、長編とはちょっと言い難い。
この記述が何によっているかというと、20世紀前半に出たコナール版である。29冊というのは、死後刊行の単行本も含めての数なので、厳密に言うと問題のある表記。
以上はまあ事実問題であるが、より重要なのはここからだ。

やつぎばやに作品を発表すると、さっさと死んでいったのである。

これはやっぱり失礼ではなかろうか。「さっさと」は余計だと思う。

おそらく読書に専念するというような時間もなかったろうし、己れの芸術の方向について深く反省するということもなかったろう。いったん筆を取りだすと、十年間書きなぐり、創作以外の時間は、生活を楽しむことだけに当てていただろう。だから、モーパッサンが自分の芸術に苦しむということは、他の作家にくらべてすくなかっただろうということも想像される。

よく注意していただきたい。この三文、すべて訳者の「推測」が述べられているだけである。
「10年の間に360編」という事実(誤認)から、翻訳者は勝手に推量しているに過ぎない。
そして今日、誠意あるモーパッサン研究者であるならば、以上の推測はすべて「偏見」であると断言するだろう。
この文章より爾来30年以上、その間にモーパッサン研究は格段に進展したけれども、中でも重要なのは彼の遺した膨大な時評文に正当な光が当てられるようになったことだ。中でも多数の文芸時評において、モーパッサンが十分な読書家であったことはもとより、同時代の文学について彼が正確な理解と洞察を行っていたことは明瞭に見てとれる。
もちろん、これは今だから言えることだ。その点で翻訳者を批判するつもりはない。とはいえ、何故こんな推測が述べられなければならなかったのかについては留意したい。
モーパッサンが「書きなぐらなかった」とはいえない。だが彼とて自分の原稿の推敲を怠ったわけではない。少なくとも「十年間」ずっと書きなぐったというのは余りに誇張である。
作家が自分の芸術に「苦しんだか」どうかなど誰にも分からないけれど、翻訳者は少なくとも『水の上』を誠意をもって読むことぐらいはするべきではなかっただろうか。

 じっさい、彼の師フローベールは、読書と思索に、己れの資源を求めていたのに反し、モーパッサンは生活そのものの中に求め、生活の沼から手づかみに泥をすくいあげて、それをそのまま原稿用紙の上にぶちまけたという感じだ。フローベールの作品のように、芸術品としての洗練された香気のないかわりに、モーパッサンには生活そのもののような生々しい、体臭がふんぷんとしていて、彼の作品が今日に生きているゆえんである。

モーパッサンフロベールと比較することは当然あってしかるべきだけれど、ここに見られるような粗雑なレトリックは何なのだろうと思う。「生活の沼」「泥」「体臭」のモーパッサンと「洗練された香気」のフロベール。訳者が暗にどちらに加担しているかが透けて見えるというものではないだろうか。
だったらフロベールを訳していればよかったのに。
レアリスムが「泥」であるというのは100年前の批評の常套句だった。翻訳者がここで見落としてるのは、歴史に対する視点であるだろう。レアリスムが起こった時代的「必然性」を理解しない限りに、それを正当に評価することはできない。

 彼の中・短編が三百六十編にあまるといえば、それは人生の万端にゆきわたり、さながら、人生の縮図とも見えるであろう。その一編を取り上げれば、それは大河の一滴、悲劇、喜劇の一コマにすぎないだろうけれど、それが二十編、三十編とつみ重ねられれば、それは一大長編(ロマン)の相を呈することになろう。事実、長編『女の一生』は、そうした幾編かの短編から成り立っているとも言えるのである。

以下は個別の作品についてなので割愛。
この文章に関してはとくに目くじら立てる必要もないように思われる。
しかし、何故このような言い方でもってして、モーパッサンの「短編」を称揚しなければならなかったのか、という疑問は残る。モーパッサンが優れた短編作家であるというならば、そういえばいい。短編小説は、長編より劣っているけれども優れているものでは断じてない。短編は短編として独立したジャンルのはずだ。「一コマ」に過ぎないのではなく、その「一コマ」において、何百ページを費やしても描けないものを描き出すのが、優れた短編小説というものではないだろうか。
率直に申し上げて、私が何故あほみたいに腹を立てているのかといえば、この文章からは作者に対する愛情というものが微塵も感じられないからである。青柳瑞穂はモーパッサン翻訳と普及に尽くすところもっとも大だった一人であるから、むやみに悪口を述べて自分を貶めるようなことは、私としてもしたくない。
だがしかし、せっせと作品を訳しておきながら、どうしてこういう粗雑な「あとがき」を記すことができるのかが、私には本当に理解できない。翻訳は何のためにあるのか。「あとがき」は誰のためにあるのか。
それは間違っても翻訳者自身の高尚ぶった文学観をひけらかすためのものではないはずだ、と思う。
この文章が今も世に出回っているのだと思うと、モーパッサンを愛する人間としては悲しまずにはいられない。