えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

愛の終わり

翻訳はこちらで読めます。なはは。
モーパッサン 『詩集』
ひとまず訳すのはそんなに難しくない。とっても「散文的」だというのを除けば。
とはいいながら、この「散文的」という形容詞に注意しよう。
詩が散文的であるとは一体どういうことだろう。そして散文的な詩は
下手な詩ということになるのだろうか。
もしもこのような詩に読者が反射的に「散文的」だと反応するとするならば、
その時、彼は暗黙の内に「詩的」なるものの定義を持っていることになる。
だがこれこれこういうものこそが「詩的」である、という前提とは
「詩」に対する既成の概念、お約束でしかないだろう。
であるならば、意図的に「散文的」すなわち「詩的」ならざる詩を
それでも「詩」としてモーパッサンが提示したとするならば、
そこで標的にされているのは、まさしく既成の詩概念に他ならない。
そのことは詩の主題にも明確に表れている。
ここでは(人間の)愛情はまったく崇高でも気高いものでもなく、
徹底的に反ラマルチーヌ、反ミュッセ、すなわち反ロマンチックなものとして
提示されている。最後の一行の原文は次のとおり。
"-L'Amour ! l'homme est trop bas pour jamais te comprendre !"
bas の語は「卑しい」「下劣」の意であり、すなわち haut の反対である。
(偽りの)理想を廃することで「現実」を暴き出す、という意味において
ここにレアリスムの志向を見て取ることは容易である。そしてその限りにおいて
私はモーパッサンの詩を「ポエジー・レアリスト」と呼ぶ。翻訳しずらい言葉なのだけれど。
要するに1830年代以降のある「詩」の潮流に対する、真っ向からの反対表明として
この詩は書かれているし、そのような詩が形式においても「散文的」であることは、
自明とも必然ともいうべきことなのである。
だが、それだけではない。
卑俗な現実を詩の中に投入するという意味において「ポエジー・レアリスト」であるにしても、
ここに描かれている世界は、決してレアリスムに則っているわけでもない。
二人の人間を除いて、ここではすべてのものが、目に見えない微生物までもが愛を交換している。
ちょっと考えれば分かることに、ここでは人間と自然という対照を軸に、すべてが単純化され、誇張され
擬人化され、「愛」に満たされた特異な世界が描かれているのである。この世界は
アニミズム的であり、フランス語としては汎神論 panthéisme 的な世界とも呼ぶ
べきものであり、まさしく「自然」そのものを謳歌するという意味においての
ナチュラリスムでもある。
そこに、モーパッサン独自の「詩的」世界というものが確かに存在する。
「ポエジー・レアリスト」の本義とは、それをこそ指すべきものである。
理想を廃し、現実に密着しながら、なおそれをさらに詩的に昇華すること。
すなわち、
亜流ロマン主義を否定し、詩壇に君臨するパルナス派とも異った
独自の「詩」を見出すこと、それが1870年代にモーパッサンが試みたことであり、
当時自然主義を掲げ果敢に戦っていたゾラともまた違った、彼独自の方向性の
模索がそこに見てとれるのである。


ということで、「愛の終わり」はモーパッサンの『詩集』の中では典型的とも
特徴的とも呼べる作品である。
以上、私が本業として取り組んできた仕事の、おおまかな概要で(も)ありました。