えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

孤独

Solitude, 1884
ひさしぶりのモーパッサンだ。ゴーロワ紙、3月31日、1886年『パラン氏』所収。
荷風『あめりか物語』中「モーパッサンの石像に拝す」のなかに次の一文がある。

愛だの、恋だのというけれど、つまりは虚偽の幻影で、人間は互に不可解の孤立に過ぎない、その寂寞に堪えられなかったらしいですね。(岩波文庫、262ページ)

この見解はどこから来たのだろう、と考えると、『水の上』「4月12日」の件りは勿論挙げられるだろうけれど、
ずばりそのままのこの作品なども、あるいは荷風の印象に残ったものだったかもしれない。
ある晩、友人と二人で散歩していると、その友人が語り始める。
その内容は、まさしく「人間は互に不可解の孤立に過ぎな」く、「その寂寞に堪えられな」い、という述懐が
ほぼ4ページ、というもの。アネクドートに乏しいこの作品が単行本に入っているのはやや意外ではある。

 そうです、誰もが相手を理解しないのです、何を考え、何を言い、何を望もうとも。(中略)
 ああ、人間だって別の人間の内に起こっていることを同じように知らないのです。我々は一人一人、あの星々よりも離れている、それ以上に、孤立しているのです。なぜなら考えというのは図り知れないのですから。(1巻1257ページ)

彼は男友達との友情も、女との愛情もいずれも不完全で、お互いに理解しあえることは絶対にありえない
と述べる(ので、荷風は微妙に彼流の限定を施しているのかもしれない)。

私はといえば、今では、心を閉ざしてしまいました。もう誰にも自分が信じること、考えること、愛しているものの話はしません。恐ろしい孤独の罰を受けていると知って、物事を眺めながら、自分の意見を述べることもしません。意見や、争いや、快楽や、信仰が何になるというのでしょう! 誰とも何も分かち合うことができないのであれば、私は全てに対して無関心です。私の考えは、目に見えないものであって、探索されることもないままなのです。私は平凡な言葉でもって毎日向けられる質問に答えますし、微笑でもって「そうです」と告げるのです、話すのも面倒な時には。
 私の言うことが理解できますか?(1259ページ)

こうした述懐をそのまま作者のそれととるならば、ペシミスムあるいはニヒリスムの表明とみなすこともできよう。
(フォレスチエも「モーパッサンが苦しんでいた存在論的な病が、登場人物に託されることでもっともよく表明されたテクストの一つ」と述べている(1648ページ)。)
ただ、その際にも、結末の存在を忘れないようにしたい。
語り手は最後にこう感想を述べるのである。

 彼は酔っていたのか? 狂っていたのか? 賢明なのだろうか? 今もそれは分からない。時には、彼には理があるように思われる。時には、彼は精神を喪失してしまったのだと思えるのだ。(1259ページ)

実はこのテクストの抱える最大の問題は、この結末にこそあるのではないだろうか、とも思うのである。
このようにして主人公の語りを相対化する、しなければならないのは何故なのか。
もちろん、ここにも「判断するのは読者のあなたです」、というメッセージが込められているだろうし、
一方で、作者のシンパシーが主人公に寄っているだろうことも想像される。
けれども、このような相対化によって、全ては一個人の思想「でしかない」という事実が強調されるならば、
この絶望的な「孤独」についての述懐をも、「そういう考え方もある」と突き放すスタンスこそが、
実は作者が取ろうとするものかもしれない。
と同時に、この語り手の言葉こそが図らずも(?)「人間は互に不可解の孤立に過ぎない」というテーズを
裏書きしている、という事実も認められるのである。
おそらく、モーパッサンは4ページにわたる述懐が、それ自体どれだけ深刻であろうとなかろうと、
それを読者が(作者の望むように十分に)理解するだろうとは思っていない。
反対に、読者は理解しない、あるいはしようとしないだろうという明敏な意識を抱いていたに違いない。
「人間は互いに理解できない」という内容のディスクールは、「人間は互いに理解できない」という前提に
立った上でしか発されえないものだし、その帰結も「理解不可能」にしかない。
そしてこのテクストは、「相互理解不可能性」をいわば構造化することによって成立しているのである。
たぶん、そういうことだろう。
そう考えた時に、モーパッサンの抱くペシミスムの「深さ」のようなものが、
真に理解される(ことがありうるとすればだけど)のでは、ないだろうか。