えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

獲物の分け前

ゾラ『獲物の分け前』中井敦子 訳、ちくま文庫、2004年
のっけから最後までゾラ節全開(当たり前だけど)の一冊。
筋だけとればなんでもない、
貪欲な投機人がやりたい放題してる間に、妻は義理の息子との不倫にふけりました。
それだけの筋でこれだけ書いてしまう、というかこれだけの言葉が必要である
というところがいかにもゾラなのである。
とにかくなんでもかんでもが最大級まで突き進んでしまわないと
気が済まない人である。「ゾラはあまりに極端だよ」という荷風
言葉はいつでも当てはまる。しかしながら、この「極端」の怒涛の流れに身を任せる
心地よさ、みたいなのがゾラを読む醍醐味ってなもんだろう。
義理の息子との禁じられた愛がついに夫に発覚した時、
しかし劇的な破局が訪れない、というあたりが、
現代小説に波乱万丈な筋はいらない、と主張するゾラが
誇ったところだったろうか、と推察する。が、そうだとすると
結末のたった二行においてルネを死なさずには、物語を終えられなかった
あたりが、これまたゾラらしく感じられるのだ。
この二行ゆえに、
いわゆる勧善懲悪の型を、(とりあえずとはいえ)遵守することになってしまう
ということを、作者はどのように考えていたのだろうか。
「意味づける」ことにゾラはいつでも少しばかり性急なように、
モーパッサンよりの見地からは思われるのである。


ところで、お教えいただいたのでとりあえず入手した本が、
アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』山形和美 訳、平凡社ライブラリー、2006年
である。新訳を出した訳者と出版社は実にえらいと思う。
んでもって、成り行きからゾラの項目を読みました。
今日ゾラ研究者が彼の特色として強調するあらゆる点が、
シモンズにとっては凡庸と愚劣の証であり、「ゾラは文学ではない」
という断罪に収斂されるのである。ちょっと笑ってしまった。
シモンズの批判はことごとく当時のフランスの保守的批評家のそれと同じである
と言っていいように思われるのだが、それよりなにより、
彼が筋金の入ったサンボリストであった、ということなのだろう。
ゾラ文学の「極端」を「詩」に回収することによって一定の評価を与えられた
マラルメと比べると、シモンズの教条主義ぶりが際立つ(ようにも思われる)。
ま、時代の証言として貴重であることには、変わりないのであるけれどね。