えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

シルヴィ

ネルヴァル『火の娘たち』中村真一郎入沢康夫 訳、ちくま文庫、2003年。
唐突に読む。
最初に読んだ頃には前半が圧倒的に優れているけど、後半はなんかよく
分んねえな、と思ったものでしたが、わたくしも齢を重ねるにつれ、
後半の切ない感じがしみじみ分かるようになってきた(ようである)。
めでたくもないが、そういうもんだ。

幻想は果実の外皮のように一つ一つ落ちていく。そして中から現れる実、それが現実というものだ。その味は苦いが、しかし何かしら人を力づけるぴりりとした刺激もある(後略)(263ページ)


ところで、「幻滅」を語っている点において、「シルヴィ」もレアリスム文学の範疇に属する(と言えるのではなかろうか)。
19世紀フランス小説とは繰り返し「幻滅」をうたいつづけてきたものである。
バルザックからプルーストまで。
「幻滅」とは、「理想」と「現実」との落差に起因する。
レアリスムとは(昔の日本の人が言ったように)「没理想」の文学なのではなく、
「理想」が実現しない「現実」(のもたらす「幻滅」)を語る文学のことなのである(たぶん)。
人がある事象に対して強く「現実味」を感じるのは、それが(暗に想定された)「理想」の挫折を
意味している時なのである。だから、レアリスムは常に理想主義の反語となる。
したがって、ほとんどのレアリストは同時にペシミストとなる。
現に19世紀フランスの小説家はほとんどがペシミストだった。
(「幻滅」を個人の情熱で超克してしまえたのは、バルザックと後年のゾラぐらいのものだね。)
ペシミスムを克服する道は、つまりレアリスムを超えて理想主義の可能性を取り戻すことである。
世紀末から20世紀初等にかけて、その道は少なくとも二つあった(と思われていた)。
一つは社会主義。ここで「理想」は「未来」に託された。社会の改良によって現実を刷新すること。
もう一つは宗教。「理想」はもっと先の「彼岸」に託される。いうまでもなく、信仰による自己の救済への
希求である。
20世紀前半の作家の多くはこのどちらかへ進みました。共産主義カトリック抜きに、この時代は語れない。
前者の夢はあえなくスターリンに裏切られ、後者の系譜も、ある時期に途絶えてしまうようであり、
そして今の時代の「現実」が、厳然と我々の前には存在している。
しかし今の時代にレアリスムが強い希求力を作家にも読者にももちえないとするならば、
それはつまり今の時代には「理想」そのものが失われてしまっているから(なのかもしれない)。
そこにはもはや「幻滅」(さえも)がありえないということなのかもしれない。


おっと「シルヴィ」からずいぶん離れてしまった。こりゃいかん。