えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

衣装戸だな

L'Armoire, 1884
ジル・ブラース、12月16日、モーフリニューズ。1886年『トワーヌ』所収。
アルモワールは「クローゼット」のこと。日本の「箪笥」には人が入れない。
これは実はシモンズが引用している作品なので読んでみた。

 夕食後、若い女たちのことを話していた。なぜって男同士で何を話すだろうか?
 我々の内の一人が言った。
 「ああ、その話題については、ある滑稽な話があるんだ。」
 そして彼は語った。(2巻401ページ)

という出だしは俗に言う「モーパッサン的」な語り出し。さて語り手は言う。ここは大貫晶川訳。

私はたつた一人で家に居た。そしてもしそうして一人取り残されて居たらば私は恐るべき憂鬱の発作に陥るだらうと感じた。その憂鬱といふのはあまりに度々やつて来ると人を自殺させるやうな性のものだ(『新思潮』明治44年2月号、30ページ)

彼は家を出て、フォリ・ベルジェールに出かけてゆく。このダンス・ホールは娼婦が男を探す場になっていた。
どの女も美しくないと不満を洩らす語り手は、しかし、

 だが突然に、僕は一人の小柄な女性に目をとめた。彼女は優しそうで、そんなに若くないが、瑞々しく、おどけていて、兆発的だった。僕は彼女を呼び止め、愚かにも何も考えずに、一晩の値段を払った。僕は一人で、たった一人で部屋に帰りたくなかったんだ。まだしも誰かといること、このいかがわしい女に抱かれることのほうがましだった。(401ページ)

そして彼女の部屋へ赴くと、彼女は入るのをしばらく待たせ、誰かと話している気配。
部屋に入った二人はすぐにベッドに入るが、

 五分後には気が狂うほどに、もう一度服を着て外に出たくなった。でも部屋で僕を捕らえた耐えがたい疲労感に押しとどめられ、動く気力もすっかり奪われてそこにとどまった。この公共寝台の中にいる嫌悪にもかかわらず。あそこ、劇場のシャンデリアの下でこの生物の内に見たと思った官能的な魅力は、僕の腕の中では消えてしまい、僕の前に体をつき合わしているのは、他のと変わらない粗野な娘でしかなく、その無関心で愛想のよいキスは大蒜の後味がした。(403ページ)

(これもまた「幻滅」の表明である。)
さて本題はここから。彼は気晴らしに彼女に昔話をさせる。「最初の過ち」はいつ、誰とだったのか。
彼女はパリ郊外セーヌ河畔のアルジャントゥイユのレストランであるボートマンに、と語る。
けれど語り手がある医者の研究に学んだところによると
「最初の相手は同じ階級の男である」という規則があるという。そこでさらに問い詰めて、
さらなる告白を引き出すのだが、その時に大きな物音がして、彼は飛び起きる。
部屋にある衣装戸だなから音がしたと突き止め、その扉を開けると・・・。


これまた切ない話であって、語り手自身も「泣きたくなった」と言うとおりだ。
モーパッサンは娼婦を題材に多くの作品を残した。それは本当。けれど、
そのことは(これまた昔の日本の人が考えたように)彼が常に「獣欲」(すごい言葉)に目を向けて
いたということを意味しない。むしろ話は全然反対であって、
ここでも問題となっているのは娼婦の現実の「生活」であり、そこには(男の)理想も何もあったものではない。
というか男性の抱くファンタスムが徹底的に否定されているといっていいぐらいだ。
「お客さん」が来ている間、クローゼットの中で閉じこもって過ごす12歳の虚弱な少年と、
息子を寄宿学校に入れたり、別の部屋を借りるお金も持たない娼婦の「現実」。
シモンズ先生はこれを「もう一層卑しい孤独」(晶川訳: a more ignoble solitude)とおっしゃるが、
これはちと酷というものであろう。

「できることをするしかないでしょう・・・」
"On fait ce qu'on peut..."(406ページ)

という彼女の述懐に何を読むかは、結局のところ読者によるのである。