えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

メゾン・テリエ

La Maison Tellier, 1881
1881年短編集『メゾン・テリエ』が初出。
『脂肪の塊』から一年、最初の短編集となるものの巻頭(およびタイトル)を飾った作品だけに
作者の込めた期待も大きかった違いない。「『脂肪の塊』と同じぐらい、それ以上ではなくても」
と自信の言葉を残してもいる。
実際、何度読んでも傑作だと素朴に思う。
主題と文体の完璧な一致(と思わせる何か)、均整のとれた無駄のない構成があり、
題材の扱い方の新鮮さがあり、なによりゾラがとりわけ称賛した
若いころのモーパッサンの「健康さ」が十全に溢れている。ここには暗い影は少しも
差し込んではいないのだけれど、後の作品を知った後に読み返せば、そのことが
なにか奇跡のようにさえ思えもする。
ところで「テリエ館」という訳もあるけれど、館というとなんだか立派な洋館を
思わせるようで難しい。日本語でいえば「テリエさんとこ」ぐらいの、親しみというか
気さくさのようなものが出てほしいのだけれど「テリエさん家」ではおかしいんだな、これが。
好きなのは出だしの一文。

 人はそこに、毎晩のこと、十一時頃に、カフェに行くように、ごく普通に出かけてゆくのだった。
On allait là, chaque soir, vers onze heures, comme au café, simplement.(1巻256ページ)

「娼家」にまつわる(だろう)先入見を徹底的にはぐらかし、フェカンの田舎町では
ブルジョア紳士達がこぞって出かける普通の遊び場なんだということを、作者は軽妙な
筆致でつづってゆく。

売春に結びつけられる不名誉という偏見は、都会では大変に攻撃的で激しいものだが、ノルマンディーの田舎には存在しないのである。(256ページ)

本当かどうか知らない。とにかくテクストはこの断定一つで道徳に関する問題を除去してしまう。
女将は常に「マダム」であり、娼婦達は「娘達」とか場合によっては「奥方 dames」とかの語で
指されるばかりだ。彼女たちが特別に美しいように描かれないということもある。
もちろん、それは全て作者の「戦術」によるものだ。テクストは一見「客観的」に「事実」
を叙述している振りを装っている。でも実際にはそんなことはありえない。
反対に、作者が意図的に「娼婦」の語を使うのは次のような箇所。

そして夜明けまで、初聖体拝受を迎える少女は娼婦の裸の胸に額をのせていたのである。(270ページ)

実にうまいなあ、と思う一文。
初聖体拝受の場面も、なんともしみじみ滑稽さに満ちている。

 突然、教会の中に一種の狂気、錯乱した群衆のざわめき、嗚咽の嵐と息が詰まった叫びが駆け抜けた。それはまるで森をなぎ倒すあの突風のように過ぎ去った。そして神父は立ったまま、動きもせず、聖体を手にし感動に麻痺したままだった。「神だ、神が我々の間におわしまし、その存在をお示しになって、跪く民衆に向って私の声へと降りて来られたのだ。」そして、彼は我を忘れた祈りを、言葉が見出せないので魂の祈りを、激しい情熱の内に天へと向かってつぶやいた。(274ページ)

要するにここではみんなが純朴であり、悪意がなく、嫌味がない。
だから読んでいて嫌な気がしない。
滑稽に描かれている。でもあえて諷刺と呼ぶ必要を感じさせない。
この作品に諷刺が込められているとすれば、その対象は読者の内にある
道徳心」だけだろう。それも娼婦=不道徳と割り切って心安らかな類の「道徳心」である。
短編集『メゾン・テリエ』は新聞広告を拒絶されるとか、駅のキオスクでの販売を
自粛されるとか、批評家レオン・シャプロンに「汚物」ordure 呼ばわりされる
ぐらいに当時においてはスキャンダラスなしろものだった。そのことを想像するのは
そんなに難しいとは思わない。けれどもそういう行為のほうに「偽善」が
ありありと感じられてしまうという事実は、意外に当時も今も変わらないのでは
ないかと思う。
ところで19世紀後半のフランスにおける公認娼家制度に関しては、
アラン・コルバン『娼婦』杉村和子編訳、藤原書店、1992(4刷)
本文だけで500ページにわたる浩瀚な書物が存在する。これを読むと
「売春」とは何であるかを社会学的に記述するのはなんとまあ
大変なことであるか、というのがよく分かるのだけれど、とにかく
いろんな形態があり、時代による変遷があり、制度に対する賛否もろもろの
意見があり、医学的問題でもあり、法律の問題でもあり、大変なんである。
これに照らしあわせると、メゾン・テリエの形態は社会学的にもほぼ正しく
記述されていることが分かり、その点では(実地観察豊富な)レアリスト・モーパッサン
というところだけれど、しかしことはそんなに単純でもない。
「娼家の女の日常生活」を記した章の一節にこうある。

 娼婦の女たちの生活は、その単調さにおいてかくのごときものである。(中略)『テリエ館』に描かれている聖体拝領のための休業、住み込み娼婦たちのエスケープなどは明らかに、眩しい文学的想念でしかないのである。(122ページ)

「眩しい文学的想念」というのはいい言葉だなと思う。で、これはやっぱりそうなんだろうな
と思われるのである。
悪意なく、底意なく描かれた明るい『メゾン・テリエ』の世界は、実はレアリスムからほど遠い
一個の眩い幻影のようなものであるのかもしれない。
この作品が優れている本当の理由は、そこにこそあるのかもしれない。