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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

夜の女

そういうわけで、この作品である。明治41年8月『あめりか物語』初出。明治40(1907)年4月と成稿年月が
記されているが、こういうのを字義通りとっていいのかどうか。ま、それはよく、
「モオパサンが短篇集『メイゾン・テリエー』を読む。」と『西遊日誌抄』に記されるのは明治39年6月22日。
なるほど。
しかしまあ普通に考えて、『メゾン・テリエ』と『夜の女』はぜんぜん別物である。「粉本」というほど
のこともないのではある。だからして、むしろ何が違うのかを考えたい。
モーパッサンは『メゾン・テリエ』において娼婦の「非日常」を描いた。
「夜の女」は彼女たちの「日常」を描いている。
だから『メゾン・テリエ』は第三部で娼家の賑やかな宴を描くけれど、
客の取り合いと悪口の言い合いを記す「夜の女」とは印象が正反対だといっていい。
たぶん、『メゾン・テリエ』があからさまに健康的に描いたの比して、
「夜の女」は不健康さに重点が置かれている。
そもそもかたやど田舎、かたやニューヨークである。
ぜんぜん違う。
同じなのは、女将の紹介につづいて五人の娼婦の描写が並べられる、というところだけである。
モーパッサンはお客の趣向に合わせるための作り物のタイプを並べる。
荷風は国籍と出自の違いから、それぞれのタイプを描き分けようとする。
モーパッサンはみんなそろって普通の女として描く。綺麗とか言わない。
荷風も同じに見せて、でもちょっと違う。

 最後のジヨゼフイン、これは姿も容色も家中での秀逸であらう。年もまだ二十を越したばかり。両親は伊太利亜の獅子里島から移住して、今でも東側の伊太利街で露店の八百屋をして居るとか。南欧美人の面影を偲ばする下豊の頬々は桃色して、眼は黒い宝石の様な湿んだ光沢を持ち、眉毛は長く描いたやう。
荷風全集』4巻、岩波書店、1992年、156ページ。

謡曲好きな女性がいる、というところは成程同じであって、そのへんは借用というかオマージュというかが
あったかもしれない。
だからもし荷風がメゾン・テリエを意識していたならば、むしろ意識的に裏がえしで攻めたもの
のようにさえ思われる。もっとも、素朴に「見聞録、観察記」というのが主なところだったのかもしれない。


しかし考えてみると、この作品はやはりそんなに素朴じゃなかったはずだ。
荷風の言とは反対に、この作品は『あめりか物語』中とりわけ人工的な産物である。
というのも純三人称の記述で、日本人も出てこない作品というのは、集中例外的なもの
だから、他の作品に比べれば、これこそよっぽど「小説」らしく見える(のではなかろうか)。
(こうなってくると著者の(時を経てからの)自註というのも困りものである。)
であれば、荷風がこの作品を執筆する時に、
モーパッサンの向こうをはる」つもりが多かれ少なかれあったと考えた方がよくはなかろうか。
モーパッサンのような小説を、モーパッサンのような筆致で書くことに、彼は関心を持っていなかっただろうか。
その時、「あんな体のもの」は多分、具体的に『メゾン・テリエ』を指してはいない。
それは文字通り具体的ではない「あんな体」のもの、一定の読書体験を経たのちに作り上げられた
モーパッサン作品についてのイメージであっただろう。


だから何なのか。
だから(多分だけど)、荷風モーパッサンの「影響」を漠然と受けたり、あるいは露骨に「模倣」したり
したんでなく、そこに意識的な「受容」があったんではないか、ということである。
実際の観察にもとづく材料を、主観を排した「非人称的」な文体によって綴り、
人物を「典型」として描きながら、ある特定の時間内に収めて場面を切り取り、
庶民の、あるいは「娼婦」の日常を浮かび上がらせること。
その点において、モーパッサンが一個の「お手本」として存在したのではないか。
そして、その点において「夜の女」は十分な成果を示していると言っていいと思う。
そしてその点において、たとえば『腕くらべ』の原型ともいうべきものが、この作品に見てとれる
ような気がする。
とりあえず、以上が現時点で私が考えることであります。