えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

隠者

L'Ermite, 1886
1月26日、ジル・ブラース、『ロックの娘』所収
5月16日、Annales politiques et littéraires
他にも後年に再録あり。最近、「再録」の実態が気になりつつある。アナ・ポリは
なんと訳すのだろう。「政治文学紀要」?
明治41年4月17日、西村渚山宛、巴里発の手紙に荷風が言及している作品。
Hermite と書いちゃったのはご愛敬。
友人たちと一緒に、カンヌからラ・ナープルの間の広い平野に住む老隠者に会いに行った帰り
というのが語りの場の設定であって、ちょっと特殊となっている。
(例の如く)仲間の一人が話を始める。二人の世捨て人を知っているが、一人は女性で
一人は男性だった、と始めて、その男性に会いに行った話が中心。
彼はラ・ナープルの向こう、エステレル山地の手前にそびえる mont des Serpents「蛇山」に
一人で暮らしている。年は四十五位、髭は黒いが髪は真白だった(極度の恐怖・苦悩の暗示)。
語り手は時間をかけてこの隠者と親しくなり、頃合いを見計らって、食糧を持って訪れ、
夕食時に彼の打ち明け話を聞き出す。

 僕はぶっきらぼうに彼に尋ねた。「どんな訳で、この頂上にやって来て住むことになったんですか?」
 彼はすぐに答えた。「ああ! それは私が一人の人間が受けうる最も荒々しい衝撃を受けたからなんです。でもどうしてそれを隠していられるでしょう。それをお話しすればきっと同情してくださるでしょう! それでも、私はそれを決して誰にも話したことはないのです・・・決して・・・私は知りたいのです、一度でも・・・他の人がどう考えるのかを・・・そしてどう判断するのかを」
(2巻687ページ)

(ここでもまた、「判断せよ」という要請が読者に告げられている。)
そこそこの財産を持った優雅なパリジャンたる彼は、ずっと独身貴族として過ごしてきた。

 つまり、二十歳から四十まで、私の生活はゆっくりと、そして早く過ぎて行ったのです。どんな特別な出来事もないままに。パリでの単調な年月はなんと速く過ぎ去ったことでしょう。そこにおいては精神の内に年月を画するどんな思い出もありはしません。長く、また忙しく、平凡でいて陽気なあの年月ですが、その間、人は飲み、食べ、理由もなく笑い、楽しみあう全ての者に、抱擁しあう全ての者に唇を差し出し、何にもねたみを感じないのです。若かったのです。そして他の者がするようなことを何もしないままに年を取りました。どんな繋がりもなく、どんな血縁もなく、どんな関係ももたず、ほとんど友人もなく、親類もなく、女達も、子どももないままに!
(688ページ)

四十歳の誕生日を迎えた日、カルチェ・ラタンをさまよい、あるブラッスリーに入ったところで
給仕の女の子に目を留める。話をまとめ、仕事の終わった後、彼女の部屋へと訪れる。
部屋を出る時になってふと目に入った写真に写っていたのは、なんと若かりし頃の
自分の姿だった!・・・


そして彼は世間から身を引いて異国の地で一人暮らすようになるわけであるけれど、
ま、折角なら荷風の要約を引いたほうが早かったかもしれない。

Hermite(隠者)の一篇は昔書生町に居た男が幾年かの後或晩書生町を散歩してとある料理屋に入りその時出来心で女を買う。女の部屋へ泊りに行くと暖炉の上に一枚の女の写真があつた。何心なく見るとこれこそ昔書生時代に自分が馴染んだ女で今買つた女は誰あらう自分の落し胤であつたと云ふだけだが此の一篇などは書生町の一部の生活が驚く程鮮明に深刻に反映してゐる。
荷風全集』第27巻、岩波書店、1995年、26ページ

こうやって見ると、荷風の関心のありどころが明らかに偏っていることがよく分かる。
荷風が語っていないこと。
語りの舞台になっている南仏辺の情景とか。
語り手の20年間の軽薄なパリ生活についての後悔と哀惜。
でもって「落し胤であったというだけ」と記すことで、
近親相姦という問題が捨象されてしまっている。
もっというとここで娼婦の問題は、同時に「父なし子」の問題と結びついていて、
どちらも当時のフランスでは無視できない社会問題であったということに
関しても、荷風は気にとめていなかっただろう。
早い話は、憧れの念願の待望の「パリ」の街を今、現に目にしているという感動
において(のみ)彼はモーパッサンの短編を読んでいる(と思われる)。
(もっとも「深刻」の一語を見逃すつもりはないけれど。)
ということはまあ、言わずもがな、ではある。
私は荷風の理解の偏向を批判するつもりは毛頭ないことをあえて申し上げておこう。
しかしながら、上に挙げたような荷風が「見なかった」(らしい)ことこそが
この作品の重要なテーマであることは、疑いえないのである。
はっきり言ってモーパッサンの中でも相当「暗い」作品であり、
フォレスチエは同種の「ジョカスト氏」「港」等とあわせて、
ここに「宿命」と「自由」の(不)可能性のテーマを見ている。
「性本能」(はショーペンハウアー的に言って「自然」が人間にかける「罠」でしかない)
に翻弄された人間は自らの宿命のなすがままで、そこに個人の「自由」が存在しえない
ということ。そして時としてそのことが個人の「破滅」をもたらしうるということ。
「隠者」とは自己を断罪するものであって、しかも宗教的救いの可能性を
モーパッサンは認めない。
暗いじゃないか。うーむ。

「あなたは、あなたがすべきことをなさったのです。他の多くの者達なら、この忌まわしい宿命をそれほどは重視しなかったでしょう。」
 彼は答えた。「知っています。でも、私は、そのことで気も狂わんばかりだったのです。思ってみたこともないほどに私の魂は繊細であったようでした。」
(691ページ)

語り手はその後2度、隠者に会った後、その地を去った。

 翌年戻って来た時に、男はもう「蛇山」にはいなかった。そして彼についての話は何も聞くことがなかったんだ。
 以上が僕の隠者の物語だ。
(691ページ)