えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

Le Port, 1889
3月15日、エコー・ド・パリ、『左手』所収。
7月4日「ラ・ヴィ・ポピュレール」、18日「ランテルヌ」別冊
1892年3月13日、「ジル・ブラース・イリュストレ」に再録。
ここまで来たら、ここまで行ってしまう方がいい。
「隠者」と「流れながれて」を足したような娼婦ものの作品だ。
1882年5月3日にル・アーヴルを出港した「風のノートル・ダム号」は
1886年8月6日、マルセイユに寄港する。船員たちは揃って裏町に繰り出すが
彼等を引き連れるのはセレスタン・デュクロ。前半は娼家の並ぶ街路の
ややどぎつい描写で、一行は一軒の家に入る。
遊び倒した4時間後、セレスタンは一人の娘と話している。語りは方言まじり。
彼女は「風のノートル・ダム号」に乗るセレスタン・デュクロを知らないか
と問いただす。知っていると請け負った彼は、何故それを知りたいのかと聞き返す。
誰にも言うなと約束させた上で、彼女がデュクロに告げてほしいという事柄は、
彼の両親と弟が亡くなったという知らせだった。
そして遂にセレスタンは彼女が自分の妹であることを知るに至る。

 涙は彼の目からも鼻からも出て、頬を濡らし、唇に流れた。
 彼女は答えた。
「死んだと思っていたのよ、あんたも! かわいそうなセレスタン」
 彼は言った。
「俺は、お前が全然分らなかった、お前はあん時うんと小さかったもんな、それがこんなに立派になって! だがどうしてお前には、俺が分からなかった、お前?」
 彼女は絶望した身振りをした。
「あんまりたくさんの男を見たから、みんな同じに見えるのよ」
(2巻1132ページ)


という訳で、娼婦の来歴物語、プラス近親相姦(兄妹)ということになる。
モーパッサンが書いたもっとも悲痛な物語の中でも、「港」は絶望のコントである」
というのがフォレスチエの言葉(1685ページ)だ。
『メゾン・テリエ』から8年、同じ娼婦を描いてもトーンは正反対といっていいし、
これが娼婦について書き継いできた作者の到達した地点だった。
何故、モーパッサンは執拗なまでに娼婦を主題に短編を書いたか。
それは、彼にとって娼婦の存在こそが「人間の悲惨」を最も端的に、象徴的に
示していたからだと思う。そしてここにも「宿命」が重くのしかかっている。
ま、あんまり暗くなってもなんなので、上記引用中の一文を原語でご紹介。
こういうのがノルマンディー方言(らしい)しゃべり方であるらしい。

Je t'aurais point r'connue, mé, t'étais si p'tite alors, et te v'là si forte ! mais comment que tu ne m'as point reconnu, té ? (p. 1132.)

言語学的にうまく説明できないんだけれど、母音の省略が多いのは一目瞭然。他には

Malheur ! j'avons fait de la belle besogne ! (p. 1131.)
なんてことだ! えらいことをしてしまった!

訳はちょっと不細工ながら、要は一人称単数なのに、動詞が複数になるというもの。
ほんとのノルマンディーものになると、けっこう解読がむずかしかったりするけれど、
フランス人研究者の見るところでは、ごりごりの方言であるよりも、特徴を捉える
ことで、パリジャンには十分了解可能でありながら、しかも雰囲気はよく出ている
という体のものであるらしい。大切なのは「本当」であることではなく、
「本当らしく」あることなのだ。ま、こういうのは難しいですね。