えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

猫について

Sur les chats, 1886
しかし本題はこちら。
ジル・ブラース、2月9日、『ロックの娘』所収。
1888年7月12日、「ラ・ヴィ・ポピュレール」(「民衆生活紙」?)再録。
「アンチーブの岬にて」という添え書き(これは本当)があり、回想録風の内容といい、
明らかにエッセーとして書かれているこの作品が、しかし短編集に収録されているのは興味深く、
研究者が調査するところによれば(嫌味な話ではあるが)、メインの物語の舞台の
Thorenc の谷にある「四つの塔の城」には、モーパッサンは訪れていないらしい(!)
実際に訪れた母親の話を元にしたのだろう、というのが本当とすれば、どこまでが本当で
どこからが嘘だか分かったものではない。
旅行記『水の上』が船上で日々書き綴ったものと謳いながら、その実は以前に書いた記事を
縦横に張り合わせた疑似旅行記でしかないように、モーパッサンはauto-fictionをとっくに
実践しているようなものである。常に問題は「本当らしさ」の追求なのである。
内容は三段落。
一段落目は文字どおり猫についての随想。

 私はこの雌猫を苛立たせ、猫もまた私を苛立たせる。それというのもこの愛らしいと同時に不実の動物を、私は愛し、また嫌っているからである。私は彼等に触れ、乾いた音を立てる、絹のような毛並みに手を滑らせることを、毛の下に、繊細で甘美なあの毛皮の下に体温を感じるのを好む。(中略)だが、この生きた衣服は、今愛撫しているこの動物の首を絞めてやりたいという奇妙で残酷な欲望を私の指先に伝えてくるのだ。
(2巻693ページ)

そして幼少時の回想が挟まれている。
二段落目はこの愛らしくも危険な動物は女性のようだ、としてボードレールの「猫達」の引用。この辺は多少なりと、デカダン詩人の常套句的である。
三段落目がアネクドート。避暑に訪れた谷間の古城に一晩泊めてもらった時のこと。
夢を見て、目を覚ますと闇の中に光る二つの目があった。
再び眠り、別の夢。トルコ人に歓待され、一人部屋に戻ると美しい女性が待っていた。
彼女と一緒にベッドに入る・・・ところで目が覚めて、気がつくと傍に猫が寝ていた。
朝、目を覚ますと猫はおらず、あれは夢かと思いつつ主人に話すと、
当地の古城には chatière という猫専用トンネルが城中を走っていて、
猫は自由に行き来できるのですよ、ということだった。
最後にまたボードレールの「猫」の引用。
前半の随想と詩の引用が、後半の夢幻的な情景と相まって効果をあげている名文である。
が、それにしても世の猫好きエッセーとは若干異なって、なんとも一捻りある一文で、
不思議な余韻が残るものとなっている。
ちなみに「シャチエール」は仏和辞書にも載っている。「猫狩の罠」という意味もあるらしい。
なぜに猫を狩るんでしょうか。怖いことだな。
ちなみにちなみに、モーパッサンが飼っていた雌猫は Piroli といい、次が Pussy
という名前だった(ギャグだかなんだかよく分からない)。従僕フランソワが語っている。
くだけて言えば「愛憎相半ば」というのが、モーパッサンの猫に対する思いだったようだけれど、
猫相手にしても、単純ではないところがモーパッサンらしい、ということかもしれない。
たかが猫、されど猫、ということで、フォレスチエの言葉を最後に引用しておきたい。

 さらには、人のいる部屋に沿って、目に見えない幽霊のように徘徊するこの猫は、誘惑し、同時に恐れさせる謎のシンボルであって、それに人間は常に触れ合っているのである。作家の想像界の奥底においては、彷徨するコレラ、散歩する猫、そして目に見えないままに見張っているオルラの間に、大きな相違は存在しないのだ。
(1538ページ)