えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

エラクリウスがらみの雑想

さて、オウィディウスによればピュタゴラスはなるほど「死んだら生まれ変わる」
と言っている。ただここでは「罪」と「贖罪」の概念は提示されていない。
プラトン語る壮大な霊魂不滅説は、その点で確かにより合致するものがあるが、
しかし天国とか地獄とか千年後に選び直し、とかそういう要素は『エラクリウス』
には皆無なのである。
以上、ここまでが「勉強」だとすれば、
では、これはどういうことなのか。
という「問い」を立てるところから、あるいは「研究」というものが始まるのかもしれない。
というか、そう思いたいね。
単純に式を立てると


オウィディウスプラトンモーパッサン=エラクリウス


である。であればこれを解くためには「移項」せねばならぬ。


エラクリウス−オウィディウスプラトンモーパッサン


である。なるほどこれは分かりやすい。
しかしまあモーパッサンの元ネタは他にもあったやもしれぬので、
あんまり簡単に解決をつけてはいけないのではある。
そういう留保をつけながら、思いつくことを記しておく。
作品中に旧約への参照が多いということは、逆に言って新約への参照は
ほとんどない、ということが、そこで気にかかったりもするのである。
それというのも、
『エラクリウス』執筆の動機の一つには、キリスト教を否定する
という題目があったのではないか、と推察されるわけである。
エラクリウスの置かれた初期状態というのは、キリスト教の神を
否定した後の、近代人の落ち込んだ袋小路だと思う。神を否定した
からと言って、別の真理が得られたわけでもなければ、まして
救済が得られる可能性も消し去ったのであれば、我々はどうすればよいというのか。
てなことを、若い頃のモーパッサンは結構真剣に考えたのではないか
と思うのである。エラクリウスはそういう彼の内的煩悶の
代理表象であったのではないかしら。
人生の抱える「虚無」を前にした煩悶に対して、明るい解答は簡単に
得られるはずもなく、『エラクリウス』の物語がとことん暗いところへ
沈んで行くのは、いわば必然ではなかったかと。
『神なき人モーパッサン』という題でモーパッサンについての伝記的研究書を
著したのはピエール・コニー。68年に出たこの本はモーパッサン研究を
本格化させる起点になったという意味で重要な本だけれど、今はそんなに
参照されない。しかしモーパッサンの見る世界観がパスカルとごく近い
ものであったというのは、これは確かなことであるように思われる。
「神とともにある」ことの至福の可能性をモーパッサンが断固拒絶した
という一点を除いて、である。
話が逸れたので戻すと、キリスト教、ないし宗教そのものをとりあえず
否定する以上、天国とか地獄とかいうイメージを持ってくることは
許されなかったのではないだろうか、と思ったりした、というだけのことではある。
輪廻の思想というのは、そこからいかに解脱するか、という問題とセットなのが
本来であるはずなのに、エラクリウスは全然そういう方向には向かわない、
ということは一つの特徴であろう。人間が一番という、奇妙に人間中心主義的な
思想であったものが、いつのまにか徹底した人間嫌いに反転してしまう
というのも、考えれば随分皮肉な話だ。
エラクリウスはどこから狂ったのか、というのも興味深い一つの問題である。
が、考えるとこれは相当遡らないといけない話になって、
結局は輪廻の発見という時点になるのかとは思うけれども、
そうするとそれ以前に「哲学的真理」の探求をしている時点に、既に
それを準備するものがあった、ということにもなり、であれば物語は
最初っから「歪み」を抱え込んでいるのだ。である以上、
人間の能力の限界性とか、あるいは人間の卑小さとかが、既にこの物語の
前提には横たわっているわけで、そこにモーパッサンの抱える根源的な
ペシミスムが既にしっかり根をはっている、ということを見ないわけにはいかない。
と、どこから攻めて行っても暗い話になってしまうのはどうしたことだろう。
こんなにギャグが詰め込まれている作品だというのに。
とりあえず、こんなところで。
まとまりもなんにもないけれども。