えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

世論

Opinion publique, 1881
ゴーロワ、3月21日。シュミット版初収録。
とある役所(文部省?)のオフィス。業務開始の午前11時、
ボスがやって来る前のひと時、五人の役人が交わす雑談である。
主な話題は二つで、一つめはロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺(3月13日)。
皇帝だろうが庶民だろうが、些細なきっかけで殺人にまで至るものだ云々。
もひとつは百貨店プランタンの火災事件(3月9日)、
というどちらもホットな時事ネタが話題となる。
プランタンのほうが諷刺が辛辣なんだけれど、「あるお偉いさんが被害者の墓前で述べた」
言葉として、次の一行が引用?されたりする。

永久の別れではなく、消防夫たちよ、また会う日まで(繰り返し)
Non pas adieu, sapeurs, mais au revoir (bis).
(222ページ)

ちゃんと10音節の詩句になってたりするんだけれど、
これが実際に消防隊長が演説で述べた台詞、
"Adieu donc pour nous tous, mon pauvre sapeur, adieu, ou plutôt, au revoir."
をからかったものなのである。
今時こんなことしたら顰蹙だと騒がれますよ。(繰り返し)って、ねえ。
さらに加えて、
「いまおっしゃったのは、どこで読んだのだったかなあ」と呆けかけのグラップとっつぁんが訊くと、
「ベランジェさ」と答えるオチまでついている。


モーパッサンが『脂肪の塊』で華々しくデビューした、というのは今では常識となっているのだけれど、
こういう「常識」はえてして胡散臭いものでもある。事実を正確に確認すればこうなる。
『メダンの夕べ』につづけて『詩集』Des vers がまず発売される。
事実上の最初の単行本は詩集だった。新聞紙上の評価はおおむね好意的なもの。
さて直後にフロベールの死去という事件があり、そのまた直後に、モーパッサンはゴーロワ紙と契約を結ぶ。
週一本「コントかクロニック」を執筆することで月500フラン。この時点で年棒2000フラン以下だった
モーパッサンにすれば破格の待遇だ。そこに『脂肪の塊』の「成功」が寄与したことは疑いないと
言っていいだろう。さて、ではそこからいきなりモーパッサンは熟練の短編作家としての手腕を示したか。
というと、これは必ずしも正確とは言えないのである。最初に書かれたのは
『あるパリジャンの日曜日』という連作短編小説だった。ただこれは編集者の口出しがあったりで
好評価とはいいがたく、連載は10回で「打ち切り」になり、その後も単行本には収録されない。
そしてモーパッサンはコルシカに旅行し、いくつかのリポートを記す。
その間、モーパッサンが準備するのはやや長めの短編で、書き下ろし作品がまとまり、
『メゾン・テリエ』が発売されるのは1881年5月。『脂肪の塊』から一年以上後のことになる。
この最初の短編集は辛辣な批評家にけなされながらも評判を呼んだ。
そしてモーパッサンが矢継ぎ早に短編を書きだすのは、この年の12月頃からのことだ。


100年以上も後から振り返るなら1年なんてあってないようなものかもしれない。
けれども私としては、『脂肪の塊』から『メゾン・テリエ』の間にあるものを無視することは
できない。そこには明らかに自分の天分を求めて試行錯誤する作家の姿があり、
『世論』のごく些細な一編もその一連の試みの内に位置づけられる。
時事ネタを集めた(だけ)のこの作品、コントともクロニックとも区別しがたいものだけれど、
まさしくここには「新聞」という媒体を強く意識する作者がいる。
真の短編作家モーパッサンは、この「新聞」というメディアを熟知する過程からこそ生まれた。
『脂肪の塊』の一編が画期的だったことを私は疑うものではない。小説家モーパッサンはここに
初めて「誕生」したのだと言える。でもそれだけが全てでは決してない。
『脂肪の塊』から初長編『女の一生』完成までの間を詳細に検討してゆくこと。
それがこれから私が自分に課そうと思う宿題なのだ。