えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

マニェチスム

Magnétisme, 1882
ジル・ブラース、4月5日。モーフリニューズ。1899年、『ミロンじいさん』に初収録。

 男同士での夕食の後、際限無い煙草と絶え間ないグラス、煙と、消化中の温かい倦怠の中、たくさんの肉と酒とが吸収され、混ざり合った後の、頭が軽く麻痺している中でのことだった。
 動物磁気、ドナトの手品とシャルコー博士の実験について話したところだった。突然に、これら懐疑的で愛想がよく、宗教には全く無関心な男たちが、奇妙な出来事、信じられないが実際に起こったと彼らの断言する物語を語り始め、急に迷信的な信仰に落ち着き、あの驚異の最後の拠り所にすがりつき、動物磁気のあの神秘の信者となり、科学の名においてそれを擁護するのだった。
 ただ一人だけが微笑みを浮かべていた。たくましく、娘たちを追いかけ、妻たちを狙う男で、彼にあってはあらゆるものに対して不信仰が深く根付いていたので、議論することさえ認めないのだった。
 彼はせせら笑いながら繰り返した。「ほら話!、ほら話!、ほら話さ!(後略)」
(1巻406ページ)

周囲の反論にもこたえない彼は、立ち上がると煙草を投げ捨て、ポケットに手を突っ込んで話を始める。
一つ目は、エトルタにおいて。男たちがニューファンドランドまで漁に出ている間、とある家の子供が
夜中に目を覚まし、「パパが海で死んだ」と叫んだ。
一か月後、船が帰ってきてそれが事実だったと分かり、思い返してみれば、日と時間もまさしく符号していた。


「それをあなたはどう説明するんです?」という問いに、語り手は答える。
自分は出かけて行って調査を行った。その結果、家族は遭難を絶えず恐れているから、
そうした寝言を言う子どもは、一週間に一人はいる。たまたまその「予言」が当たった時には、
後から思い出して意味を見出すだけで、そうでなければ忘れてしまうだけのことなのだ。
男たちはなるほどと頷く。
語り手は、今度は自分の身に起こった出来事を話す。
ずっとまったく目にもとめなかった女性の記憶が、ある晩強烈に蘇ってきた。
そのまま眠りにつくと、彼女の夢を見た。

 あなた達はみんな、あの奇妙な夢を見たことがおありではないですか? 不可能が可能となり、超えがたい扉が、望みもしなかった喜びが、征服できなかった腕が開かれるような夢を?
(409ページ)

それはあまりにもはっきりした夢で、目が覚めた後も、肌のぬくもりや香り、口づけの味までが残っている
ほどだった。そしてそんな夢が三度繰り返される。
翌日、男は我慢できずに、その彼女を訪れる。

 私は何かつまらないことを呟きましたが、彼女は聞いてもいないようでした。何を言い、どうすればいいのかも分かりませんでした。それで、私はいきなり彼女に飛びつき、腕を開いて彼女を抱いたのです。そして私の夢はすっかり達成されました。あまりに素早く、あまりに簡単で、あまりに狂ったようだったので、急に目が覚めているのかどうか疑問になりました・・・。二年間、彼女は私の愛人でした。
(410ページ)

「それでどう結論するんだい?」と聞かれ、語り手は苦し紛れに、無意識の記憶が蘇ったのだろうと説明する。

 ―お好きなように。一人の客が結論を述べた。でもそんなことの後で、あなたが動物磁気を信じないなら、それは恩知らずというものですよ!
(410ページ)

なんじゃ、こりゃ。というお話である。
動物磁気ことマニェチスムは、時代のトピックだった。有名な精神科医シャルコーは、サルペトリエールの病院で
催眠術の公開実験なんかを行い、作品に名の上がるドナトは、サロンで実演する山師みたいな人物だった。
磁気とか電気とかの発見は、「目に見えない力」が存在することを科学的に証明した。催眠術や交霊術は、
人体から出る「目に見えない力」の作用によって起きる、という説は当時、「科学的」信憑性が決して
低くはないように考えられていたのである。
というような背景がある。もちろん懐疑的な人はいくらもいただろうし、この語り手はそれを代表する人物
なわけである。
一つ目の話は、テレパシーかなんかを合理的に解釈する話で、これは納得がいくのだけれど、
その話をする当人が、なんだかまったく訳の分からない話をして、自分でどつぼにはまって
終わりになるので、なんじゃこりゃ、という印象が残る。
きっと、モーパッサンは読者を煙に巻いているのだ。
幻想小説」だけを個別に集めてあれこれ考えだすと、結局のところモーパッサンはマニェチスムを
信じていたのかいなかったのか、どっちやねん、という疑問にぶち当たるのだけれど、
幾ら読んで、幾ら考えても、たぶん答えは出ない。物語の必然性しだいで、信じているような語り手も
出てくれば、ここのように信じていないらしい語り手も出てくる。それだけのことだからだ。
モーパッサンはそういう融通無碍な人だった、と考えるのがだから妥当なところなのだろう。
一見、懐疑的にばっさり切り捨てるように見せておきながら、最後は読者を煙に巻くこの作品、
いわば作品そのものがマニェチスム的なのだ。
よく分からないものについて語る物語が、それ自体よく分からないものであるということ。
その時にのみ、どちらの「党派」にも与しない、自由な立場に作者は立つことができる。
半信半疑でうさんくさいものに好奇心を寄せる世間の人たちに対する、
モーパッサンのシニカルな視線が、そこに感じられるのだ。