えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

盲人

L'Aveugle, 1882
ゴーロワ、3月31日。Le Voleur 4月14日再録。
『ミロンじいさん』初収録。
(ヴォルールはジラルダン発明の新聞として出発したものだけど、この時期も剽窃だったのかは寡聞にして不明。)
『マニェチスム』の一つ前がこの作品。

 春の最初の太陽のこの喜びは一体何なのだろう? 地上に落ちてくる光は、どうして生きる幸福で我々を包むのだろう? 空はすっかり青く、野原は一面緑で、家は真白だ。そして魅せられた我々の目はこの生き生きとした色合いを飲み干し、魂に歓喜を与えてくれる。そして踊りたい、走りたい、歌いたいという欲望に、思考の幸福な軽やかさに、広がっていく一種の愛情にとらわれるのだ。太陽を抱きしめたいと思うだろう。
 盲人達は扉の下で、彼らの永遠の暗闇の中に無感動なまま、この新しい陽気さの中でもいつものように平静で、理解することもないまま、跳ね回りたがっている犬を絶えず宥めている。
(402ページ)

そして語り手は、「考えられる限りもっとも残酷な殉教者」として、ある盲人を物語る。
ノルマンディーのある農家に生まれた息子は盲目だった。両親が健在なうちは問題なかったが、
二人がなくなり、彼は妹(姉?)の家にひきとられ、「残酷な生活」が始まる。
食事のたびに文句を言われ、「怠け者、恩知らず」と罵られる。彼はどんな侮辱にも無関心で、
いつも自分の内に閉じこもっていた。食事の後はじっと動かずに夜まで過ごした。

彼は精神、考え、自分の人生についてのはっきりとした意識を持っているのか? 誰もそれを考えてもみなかった。
 数年の間はそんな風にして過ぎた。だが何もしない彼の無力さと同時に彼の無関心ぶりが、ついには家族を憤慨させ、彼はなぶり者、一種の道化にして犠牲者となり、周囲の乱暴者たちの生来の残酷さと、粗野な陽気さの餌食となった。
(403ページ)

彼らは、食事のテーブルに猫や犬を置いたり、ごみのようなものを食べさせて笑い者にした。
それが評判を呼び、近所の者たちも見にくるようになる。
そして遂には、彼は物乞いに出るように強制される。が、農民たちは気前よくはないので、彼は1スーさえ
もらうことはできなかった。
そしてある冬の日、義父は彼を遠くに連れ出し、日が暮れてから、もう遅いから見つからないだろうと言った。
どうせ明日には歩いて戻ってくるだろう。
けれど翌日、彼は戻って来なかった。彼は雪の中に行き倒れたのだった。
春になって雪が溶ける頃、平野にカラスが集まっているのがみられた。
それは一週間つづき、わんぱく小僧が見に行くと、半ば食べられた彼の遺体があった。


という大変残酷な話である。あまりの救いのなさに驚いた、初読の時の印象が忘れられない。
春の目覚めを歌う冒頭と内容とのコントラストはあまりに強烈だ。
作者は周囲の者たちの見せるエゴイスムと嗜虐性とを、声高に非難するわけでもなく、
ただ淡々と叙述するばかり。その「無感動ぶり」に驚かされるわけだけれど、作者が
本当に無感動だったわけではないはずだ。
呵責ない現実を、なんらの虚飾も交えずに描き出すことにこそレアリスムの真髄がある。
ただ描くことで、伝わるべきものは伝わるという確信と、一種の読者への信頼がなければ、
こうは書けないし、このように書けた人を、私はモーパッサンの他に知らない。
結末は次のようなものだ。

 そして私が太陽の照る日々の生き生きとした陽気さを感じる時には、あの乞食に対する悲しい思い出と、憂鬱な考えを抱かずにはいられない。彼は人生においてあまりに不幸だったので、彼の恐ろしい死は、彼を知るすべての人に安らぎをもたらしたのだった。
(405ページ)

作者は静かに糾弾しているかもしれない。しかしそれが声高な主張になってしまったなら、
そこに偽善が忍び込まないと断言できるだろうか。声を大に語らないこと。
事実だけに語らせること。「非人称」の美学は、同時に作者にとって倫理をも意味する。
こんな作品を新聞に掲載してしまう作家の意志のありように驚く。
ここにこそレアリスト・モーパッサンの真の姿があるのだと思う。