えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ふいうち

Une surprise, 1883
ジル・ブラース、5月15日、モーフリニューズ。シュミット版初収録。
これまた『あるパリジャンの日曜日』第7話「悲しい話」のリライトで、
単行本に収録されなかったのは意外な気がする。

 僕たち、僕と弟とは、おじさんのロワゼル神父に育てられた。「ロワゼル司祭」と僕たちは呼んでいたものだ。両親は僕たちが小さい頃に亡くなったので、神父が僕らを司祭館に引き取って養ってくれた。
(1巻816ページ)

神父は18年前からイヴトーの近く、ジョワン=ル=ソーの村の祭務を司っていた。田野に散らばる農家を除けば、
通りには6軒の家、道の両端に教会と役場があるだけの田舎だ。
兄弟は墓場の墓標を暗記の練習に使って勉強した。

 僕のおじさんは骨ばった背の高い司祭で、体のように考えも四角張っていた。彼の魂もまた厳しく、厳格なこと、教理問答の答えのようだった。彼はしばしば響き渡る声で神について語った。この語をあんまり乱暴に発音するので、まるでピストルでも撃つようだった。彼の神はまた、「善良なる神」ではなく、ただの「神」なのだった。彼は神のことを、畑泥棒が憲兵のことを、囚人が判事のことを思うように思っていたに違いない。
 彼は僕と弟を厳しく育て、愛することよりも震えることを教えたのだった。
(817ページ)

14歳と15歳になると、二人はイヴトーの神学校に入れられた。
モーパッサン自身が通った学校であり、個人的記憶が色濃く出ていると推察される。)

 大きな悲しげな建物で、司祭と生徒たちで一杯で、生徒の多くは聖職に就くことになっていた。あそこのことを思うと今でも悲しみに震えてしまう。そこでは潮の日の市場で魚の匂いがするように、祈りの匂いがしていた。おお! 悲しい学校だ、永遠に繰り返す宗教行事、毎朝の冷やかなミサ、瞑想、福音書の暗唱、食事の時の経験な読書! おお! 壁に囲われた中で過ぎ去った古き悲しき時代、そこでは神のことについて話すのしか聞かれず、それもおじさんの雷のような発音の神についてだった。
(817ページ)

それでもバカロレアをとって二人は卒業し、パリに出て共同生活を始める。年棒1800フランの役所勤め。
仲間が出来、劇場にも通い、パリの生活に慣れ、やがて兄弟はそろって、同じ建物に住む二人の娘と恋仲になる。
おじさんからは今も手紙が来るので、弟は別の部屋を借りて出て行き、語り手はルイーズと同棲を始める。
六か月が平和に過ぎた後の、ある晩。突然に誰かが訪れて来た。
おじさんだった。
語り手は動揺し、彼女をベッドに隠したままおじさんを迎え、
とりあえずありったけの食事を出して時間を引き延ばすも、妙案は一つも浮かばない。
ついにおじさんは一眠りするからと寝室に入り、なんだ弟は寝ていたのか、と
シーツにくるまった体を陽気に叩くと・・・。


おじさんに遺産の相続権を剥奪され、

 僕は決して結婚しないだろう。女性はあまりに危険すぎるのだから。
(822ページ)

という苦い結末はいかにもモーパッサンではある。笑い話が笑い話のまま終わらない
ところがちと意地悪いというか、厳しいというか、優しくはない。思うに、
この結末は、もう一度物語の内容の「意味」を問い返させようとするもののようだ。
厳しいおじさんに黙って同棲していたのは悪かったにせよ、前半に語られる、抑えながらも
批判のこもったおじさんについての思い出が、語り手の行動をいくらかなりと弁解し、
正統化もするだろう。おじさんにも非はあるのだ。
ならば、この物語の意味せんとするところは、一体何なのか?
単純な意味ないし教訓など無いのかもしれない。では読後の私の内に残る
なんとも割り切れない感情はなんだろう?
「聖職者」全般に対する、あるいは謹厳すぎる人物に対する、
作者の批判が暗に込められていると見るのは、神学校時代の思い出が織り込まれている点からも
間違いではないだろう。
だがそうして批判される人物ではなく、語り手のみが一方的に不幸に、あるいは孤独に(自ら)陥る
ところに、モーパッサンの特異性がある。反抗もなく断罪もなく、そこにあるのは諦念だけだ。
それがペシミスムというものではあろう。その背後には決定論的な見方があり、
それはまた「宿命」の意味合いを担っていよう。
笑えない笑い話は、読む者の人生観を問い返す。わだかまりは読者自身が解決をつけるより
しかたがないのだ。