えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ふりんのもんだい

さて不倫の問題である。て嬉しがってどうする。
いまさら言うまでもなく、『クレーヴの奥方』以来、綿々と続くフランス文学の伝統であってみれば、
ことさらモーパッサンが新しいわけではないのである。しかしモーパッサンにとっても
まこと重要な主題であったことは、これまた疑いようもない。
考えてもみよう。
女の一生』のジャンヌの旦那ジュリヤンは、二度にわたって浮気した結果、悲惨な末期を迎える。
『ベラミ』の主人公デュロワはド・マレル夫人にせよワルテル夫人にせよ不倫しまくりで成り上がる。
『モントリオル』のクリスチアーヌはお馬鹿な夫アンデルマットが何も知らない間に、ポールと浮気して子供を産む。
『ピエールとジャン』の兄弟のお母さんは若い時に愛人ができて、彼の子供がジャンだった。
『死の如く強し』の画家ベルタンの愛人はアニー・ギルロワ伯爵夫人で、旦那は健在である。
最後の『我らの心』のマリオルの愛人ミシェル・ド・ビュルヌは、遂に後妻であって、ようやく(一応)
不倫ではなくなるのだ。
長編6編中5編までに不倫が重要なテーマとして出てくる。かくもモーパッサンと不倫とは
きってもきれない仲なのである。
で、これは作者自身が不倫ばかりしておったから、とかそういう話ではとりあえずなくて、
当時の社会にあっては、不倫以外に恋愛はありえなかった、という根本的な問題があるのである。
そういう事情は『ボヴァリー夫人』と『女の一生』を読めばよく分かるのであり、
ここでつらつら書きだすと長くなってしょうがないので割愛するけれど、
要するにそうなんである。結婚は親が決めるものであり、未婚の女性は大人として扱われなかったから、
恋愛できるのは、結婚してからだったんである。
大変興味深いことに、上記長編の不倫する女性たちは、みんなそのことを後悔したり、罪だと思ったり
しません。夫に対する罪悪感なんてものは見事にないところ、大変痛快というべきであろうか。
で、私の目下の問題は怒れるリュヌ伯爵夫人の後裔ははたして存在するのかどうか、ということにある。
自分の恋愛の成就のためには夫だろうが領地だろうが国だろうがなんだろうが、そんなもんは
知ったこっちゃないのよ。不倫で何が悪いのよ。はじめっから夫なんか愛していないのよ。
と堂々と宣告するような女性を、小説家モーパッサンは描いたかどうか。
70年代劇作家モーパッサンと、80年代小説家モーパッサンにおいては、
女性像の描出に相違がみられるのかどうか、ということを問題にしているわけである。