えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

遺書

Le Testament, 1882
ジル・ブラース11月7日。『山鴫物語』所収。
「プチ・パリジャン」1890年6月22日別冊、「ラントランシジャン・イリュストレ」1890年10月9日再録。
ポール・エルヴュー Paul Hervieu (1857-1915)献辞つき。
「私」の友人ルネ・ド・ブルネヴァルは懐疑的で、
「貞淑な人間なんていないのさ。少なくとも放蕩者と比べてそうだというに過ぎないのさ」
というのが口癖の人物。二人の兄がいるが、苗字はド・クルシルと名乗っている。
語り手は彼に「君はお母さんの最初か二番目か、どちらの結婚の時の子供なの?」と尋ねると、
彼は身の上話を始めた。
夫は粗野な人間で、彼の母はいつも苦しめられ、二人の息子(兄)もまた母をぞんざいに扱った。
その母親は亡くなる前に遺書を残した。
その遺書が開封される時、夫と三人の息子の他に、父の友人のド・ブルネル氏も同席していた。
彼は細見の背の高い男性で、曽祖母はルソーの友人だったので、彼もルソーに親しんでいた。
そしてルネは彼によく似ていた・・・。
いよいよ遺書が開かれる。

 私はまず神に、それから愛しい息子ルネに、これから犯すことになる行為の許しを求めます。息子の心はもう十分に育っているので、私を理解し、許してくれると思っています。私は生涯苦しんできました。夫に打算によって結婚され、それから軽蔑され、ないがしろにされ、抑圧され、絶えず騙されてきたのです。
 私は彼を許します。でも彼には何も負ってはいません。
(1巻622−623ページ)

例によってフォレスチエ先生の指摘の通り(先生はなんでも指摘している)、ここには『ピエールとジャン』
に共通するものが既にある。それはその通りである。
この手の話は構図が見えすぎるきらいがあるのは確かながら、やはり母としての、
あるいは女としての思いを打ち明ける遺書は痛烈であると認めたい。
まぎれもない結婚という制度の犠牲者の姿がここに描かれている。
が、彼女の「反抗」は遂に遺書によってしか打ち明けられなかった、という点にこそ、この作品の
意味はぐぐっと込められているように思われる。


だから、話は戻って、今の私はこう考えるのである。
モーパッサンは70年代からすでに、結婚制度が女性に対しあまりに不当でありうることを認識していた。
もちろんその例は目の前に、彼の母親としてあったのだから、当然のことなのである。
けれども、レアリスト作家としてのモーパッサンは、被害者としての女性の声を
リュヌ伯爵夫人に託したようには直接に、小説中の女性たちに語らせることができなかった。
少なくとも、それはできないと当初の彼は考えていた。
それは、現実の世界において不可能だ(と思われた)から。
その時、彼が描いたのは『女の一生』であり、『モントリオル』であり『ピエールとジャン』だった。
のではないか。つまりは現にそのようでありうるような女性の姿を描くことのうちに、
思いを込めたということ。
反対に言うと中世を舞台にした韻文歴史劇という虚構性こそが、モーパッサンをして女性に
堂々と反抗の宣言を述べさせることができたのではなかったか。
というのが、とりあえず今日の結論。明日には変わるかもしれないけれど。