えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

どうぶつせい

たんぱく質の話ではなく。昨日の「シギ」について追加考察。
学校に行ったこともなく放っておかれたガルガン(羊飼い)と、15でアル中で貞操の観念ゼロのラ・グットの
表象のあり方は明らかに動物的だということである。「人間性」が理性とか知性とか精神とかを意味する社会において
社会から疎外されて育った彼らは不可避的に真っ当な人間扱いされることはない。つまり動物に近いのだ。
ラ・グットの淫行にせよ、ガルガンの衝動的な暴力にせよ、彼らの内の「動物性」の表現に他ならない。
(だからガルガンは聾唖であり、彼は「言葉」を知らないとされる。)
そこで戻って前半の狩猟というテーマだ。狩猟(人間が動物を殺す)と殺人(人が人を殺す)との接続にはそれ自体、
人間の内にある暴力性に対する批判的視線が窺えるけれど、もっと進んでそれは人の内にある獣性を暴き立てることに
つながり、この世界にあっては人間と動物との境界はほとんど消失してしまう。
そしてそういう(自然の支配する)世界が、女友達の住む社交界(人間界)と鋭く対比して提示される。
当時新聞や書籍を読む読者は当然後者の側に属するわけで、そこに安逸に暮らす読者に向けて、モーパッサン
人間性そのものを問い、あるいはその内奥に潜むはずのものを突き付ける。そして内省を求める。
いささか無粋に説明をつけるなら、そういうことになるのだと思う。