えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

マノン・レスコー

アベ・プレヴォマノン・レスコー河盛好蔵 訳、岩波文庫、1997年(73刷)。
恋愛には金が必要である、という赤裸な真実を語った書であるということにまず注目。

恋は富よりもはるかに強い。恋は財宝よりも富裕よりもはるかに強い。けれど恋はそれらの力を借りねばならないのだ。そうして心弱い恋人に取っては、そのために不本意ながらも、世界中で一ばん下等な人間の俗悪さにまでなり下るほど絶望的なことはないのである。(119ページ)

さすがは近代リアリズム小説の元祖と謳われるだけのことはある。
物語の展開は驚くほど明快だということにも改めて感心する。
デ・グリューはマノンを愛している。マノンもデ・グリューを愛している。でも彼女は贅沢ができなきゃ駄目である。
その大前提のもとに、デ・グリューが金を見つけては幸福に浸るが、必ず災難が押し寄せて金がなくなり、
マノンは別の男に奪われてしまう。デ・グリューは必死に取り返す。その繰り返しの内に、
彼は螺旋を描くようにずぶずぶ泥沼にはまってゆく。
正直、シュヴァリエのあほさ加減にはげんなりするのであるが、すかさず河盛せんせいはおっっしゃるのだ。

もしこの物語を読んで、シュヴァリエ・デ・グリューのあまりにものだらしなさに眉をひそめる人があるとしたら、その人は真の恋愛とは、また女に迷うとは、いかなることであるかを知らない人である。およそ男である限り、アナトール・フランスの如く、この書の巻を閉じるに当って、「一生涯恋をして、しかも一週間しか貞節でいられなかった」また「オピタルに曳かれてゆく馬車のなかまで美しかった」マノンを偲んで「おお! マノンよ。もしお前が生きているなら、どんなにか私はお前を愛するであろう」と叫ばずにはいられまい。(234ページ)

そうかもしれないが、なんかとても悔しい。少なくとも私はフランスのようにはこの「書物のなかでは、
すべてが自然であり、真実であり、的確である」とは、思わない。
たとえばプレヴォーはあからさまに生殖という問題を排除している。恋愛と母性は相いれないというモーパッサン式思考
の典型である。なんにせよそれは「自然」でなく、たいそう人為的というものだろう。
デ・グリューは生まれからして高貴で特別な人間であるということは再三言われるし、マノンはもちろん特殊人物だ。
18世紀の貴賎観を土台に置いたうえで、さらに例外的な、特別な人間による物語だということは忘れるべきではない。
フランスなんかにここまで堕ちることができるもんか、というものである。
余計な雑音を全部排して綴られているこの物語は「自然」の正反対の産物であり、そこにあるのは
純粋理念という意味での「理想」であり「観念」というものだろう。
そこに「男性の」という形容をつけるにせよ、つけないでおくにせよ。
だがもちろん、そうだからこそこの作品は恋愛小説の傑作として不滅となったのではある。
しかし「真実」を高らかに告げるより前に、自分の内で一度はそぎ落としてみるべきものがあるのではないか
と言いたいのだよ、フランス君。そいから河盛君も。


てなことを言ったらモーパッサンにも文句をつけておくべきであるかもしれないけれど、
とりあえず宿題に。
モーパッサン 『マノン・レスコー』 序文