えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ヘアー・ピン

L'Epingle, 1885
ジル・ブラース、8月13日、モーフリニューズ。『パラン氏』所収。
「ラ・ヴィ・ポピュレール」1886年2月25日。『新デカメロン』二日目。
「ラントランシジャン・イリュストレ」(「一徹者」と訳すのか)1891年10月8日、
「プチ・パリジャン」1892年1月17日。

 国の名前も、その男の名前も言わないでおくことにしよう。それはここから遠い、ずっと遠い、肥沃で焼けつくような沿岸にある。我々は朝から、収穫物に覆われた岸辺と、太陽に覆われた海とに沿って進んでいた。花々は波のすぐ傍に咲き、波は軽やかで、大変に優しげで、眠りを誘うようだった。暑かった。肥沃で、湿度が高く、豊穣な土地の匂いあふれ、気だるい暑さだった。植物の芽を呼吸しているようだった。
(2巻、519ページ)

その土地に住むフランス人が泊めてくれるだろうという話を聞いて、語り手は彼の家を訪れる。
10年前にその土地に来て以来、休むことなく仕事に精を出し、大金を稼いでいるという話だった。
海岸沿い、オレンジ畑に囲まれた岬にその家は建っていた。
歓迎してくれたのはあごひげを長く伸ばした男。テラスで食事をとった後、
二人はパリの社交界の人々について話す。彼はかつてパリジャンだった。
女達の話になるが、彼は急に口を閉ざし、彼は部屋へと語り手を招く。
雑多な品のあふれる中、壁にかけられた白いサテンの布の真ん中に、一本のヘアピンがささっていた。
驚く語り手に、「そのヘアピンが私の人生そのものなのです」と言い、男は打ち明け話を始める。
彼はジャンヌ・ド・リムールを熱愛していた。

 彼は呟いた。「彼女を愛している」と。まるで「死んでしまう」と言うかのようだった。それから突然、「ああ! 三年というもの、我々の生活は恐ろしいと同時に甘美なものでした。五度か六度は彼女を殺しかけました。彼女は、今ご覧になったヘアピンで私の目を刺そうとしたのです。さあ、私の左目の下の白い点を見てください。我々は愛し合っていた! どんな風にこの情熱を説明できるでしょう? あなたにはお分かりにならないでしょう。
 あの娘は三年で私を破産させました。私には四百万ありましたが、彼女は穏やかに、何事でもないようにそれを食いつぶしたのです。目から唇に滴るような微笑みを浮かべながら、それを蕩尽したのです。
 彼女を知っていますか? 彼女には抵抗できない何かがあります! 何なのでしょう? 私には分かりません。それはあの灰色の目でしょうか、その視線が錐のように入って来て、矢の鉤のように内に留まるのです。それはむしろ、あの優しげで、無関心でありながら誘惑的な微笑でしょう、仮面のように彼女の顔の上に留まっているのです。
(522-523ページ)

彼女の浮気をとがめると、彼女は言う。「わたしたちは結婚しているのかしら?」

 ここに来て以来、あの娘のことをよく考え、ついには分かりました。あの娘は、蘇ったマノン・レスコーなのです。マノンこそは、愛していながら必ず騙すのです。マノンにとっては、愛と、快楽と、金銭とは一つのものでしかないのです。
(523ページ)

やがて破産した男に彼女は告げる。

「ねえ、あなた、お分かりでしょう、空気と時間でもって生きてゆくことはできませんわ。わたしはあなたをとても愛していますわ、誰よりも愛しています。でも生きていかなくてわねえ。惨めさと私とはうまく折り合うことはないんですもの。」
(523ページ)

「かつての誰以上に、彼女は女そのものなのです」と語りは言う。そして彼は、百万フランを貯めた暁には、
全てを現金にしてパリへ戻るつもりだと告げる。一年は彼女と幸せに過ごせるだろう。それが尽きれば
自分の人生は終わりなのだ・・・。


という訳で、モーパッサン版『マノン・レスコー』であり、件の序文を書いたのとほぼ同時期の作品である。
その本性からして男を誘惑してやまぬものであり、貞操の観念を知らず、全ての男を虜にし、そして破滅させる。
それがモーパッサン言うところの「女の真髄」であり、マノンこそがその象徴である。
と考えると、モーパッサンもまた世紀末「宿命の女」にまつわる神話的言説の生産に与るところ少なくない
ということになるだろう。彼はもちろん「ヘロディアス」を愛読していたのでもあるし。
意識的か無意識にか、モーパッサンはマノンをそのような明確な人物象に多かれ少なかれ還元している。
それは序文についても言えることだ。
ただ、フォレスチエ先生が正しく指摘するとおり、ここでより注意したいのは度を越えた情念のありようである。
愛すると同時に憎しみ、相手を殺しかねない域にまで到ること。全財産を彼女のために蕩尽することを
辞さないあまりか、それだけが唯一の生き甲斐になること。ここでは情念は既に狂気の一歩手前、
あるいはその境界は既に踏み越えられているのかもしれない。情念は人に取りつき、最後にはその者を食い殺す。
この作品ははっきりと一連の狂気を主題にする作品と繋がっている。
そしてその物語と(虚構の)人物造型という点を見逃さないのであれば、ここに吐露される女性観を、
そのまま作者のそれに「還元」することは、たぶん、多少なりと単純化のそしりを免れないのである。
結末まで言及してしまうと、これがなんとも皮肉というかなんというか、実に味わい深いのだな。

 私は尋ねた。「でもその後は?」
 ―その後のことは知りません。終わってしまうのです! きっと私は彼女に、従僕に使ってくれとでも頼むことでしょう。
(524ページ)