えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ジョゼフ

Joseph, 1885
7月21日、ジル・ブラース。『オルラ』所収。
「ラ・ヴィ・ポピュレール」1887年7月14日、「ラ・ランテルヌ」別冊、1888年1月22日再録。

 彼女たちは酔っていた。すっかり酔っていたのである、小柄なアンドレ・ド・フレズィエール男爵夫人と、小柄なノエミ・ド・ガルダン伯爵夫人は。彼女たちは窓越しに海が見える客間で顔をつきあわせて食事をしたのだった。開いた窓からは、夏の宵の物憂げな海風が入って来ていた。同時に温かくも冷たくもある、海の香りの強い風だった。二人の若妻は長椅子に身を伸ばし、刻々とシャルトゥルーズを飲みながら煙草をふかし、親密な打ち明け話をしていた。ただあの愛らしい予想外の酩酊だけが、彼女たちの唇に誘い出すことのできる打ち明け話を。
(2巻506ページ)

ディエップ、エトルタ、トルゥヴィルといった賑やかな避暑地を嫌ったそれぞれの夫が、フェカンの近くの
このロックヴィルの谷間に捨て置かれていた家を借り、一夏の間、妻をそこに置き去りにしたのだった。

 伯爵夫人は椅子の背に足を乗せ、友達よりも酔っ払っていた。
 「こんな風な夜を終えるには」と彼女は言った。「私たちには恋人が必要よね。もしも予想していたら、パリから二人連れて来ておいて、一人は譲ってあげたのにねえ・・・」
―私は、と相手が答えた。いつでも見つけられるわ。今晩だって、そうしようと思えば、そうするわよ。
―なんですって! ロックヴィルでっていうの? 農民とね。
―いいえ、そんな訳ないじゃない。
―それじゃあ、話してちょうだい。
―なにを話せっていうのかしら?
―あんたの恋人のことよ?
―ねえ、私は愛されていないと生きていけないの。愛されていなかったら、死んでいるみたいだわ。
―私もよ。
―そうじゃなくって。
―そう。男たちには分かりもしないのよ! 私たちの夫ときたらなおさらに!
(507ページ)

以下、作品は(最後を除いて)二人の対話のみで構成される。
二人は恋愛について語り、アンドレは、どこに行っても愛人にする男を探しているという。

―あんたが選ぶの?
―ええ、もちろん。まず最初にメモをとって情報をえるの。なによりも男は慎みがあって、金持ちで気前がよくなければ駄目だわ。そうじゃなくて?
―そうでしょうね?
―それから、男として気に入るのじゃなきゃ駄目よ。
―当然だわ。
―それから、私は餌でおびき寄せるの。
(508ページ)

男たちは自分が選んでいるつもりだけれど、本当に選んでいるのは女のほうだと彼女は言う。
誘惑にかからない男は三種類だけ。他の女に惚れているか、極端に内気か、あるいは不能かだ。
そして彼女は以前、田舎に引っ込んでいた時に、ある農家の息子を召使に雇い、誘惑した
経験を物語る・・・。


先々日の話の続きでいうと、「女の本音」トークである。
(ほぼ)全編対話だけという作品は全部で10近くある。寸劇に近いもので、その意味で
初期韻文戯曲の発展形と考えることもできる。「短編」のあらゆる形式を実践した
モーパッサンならでわの作品だ。
さて、捕まえるのは実は男ではなく女のほうである。というテーズは他の作品でも語られるもの。
魚を釣るように、あるいは獲物を追うように。はたまた罠をしかけるように。男を捕らえ、
破滅させる恋愛という罠。ベナール=クルソドンはそれをモーパッサン作品の根源的「テーマ」として分析を
繰り広げた。男女の関係は対等ではなく、むしろ主従の関係なのだというペシミスティックな哲学
(とフォレスチエ先生が言うているわけだけれども)。
ところでなぜにジョゼフなのか、が私には分からなかったのだけれど、これは創世記によるところの
ヨセフであるらしい。主人ポティファルの奥さんはこっそりヨセフを誘惑するが、ヨセフは神に対して
罪は侵せないと拒む。怒った奥さんは自分が誘惑されたと騒ぎたてる、というお話だ。
召使をジョゼフと呼んで相手の恋心を掻き立てるだけ掻き立ててもて遊ぶアンドレの
意地悪さというかなんというかは、実にまあ恐ろしい(あ、本音がでてもうた)。
いかにもジル・ブラース向けの(下品すれすれの)艶笑譚であるけれども、
作家が、率直に、自由に女性の声に語らせているという点に留意したい。
それが「本当に」女性の声であるかどうかを即断することは、私にはできないけれども、
「脂肪の塊」や『女の一生』のジャンヌを思い出す時、そこには鮮やかなほどに対照があるということ
は間違いない。少なくとも作家は意識的に、彼女たちに語らせる方向へとこの時期進んでいると言えるのだろう。
そのことには少なからぬ意味があると、今の私は考える。