えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

水辺にて

実際に訳してみて改めて驚いたのはあけすけなまでの率直な表現ぶりで、
訴えかけられたのもむべなるかな、という感じがする。
ただし、あまりにあけすけなので、いやらしい感じは全然しないと思う。しかしまあ
訳してしまうと「散文度」がいやが上にも高まってしまうのは困ったことだ。
原文はあくまで伝統的なアレクサンドランを固守しつつ、しかし当時半ば形骸化しつつあった
韻文形式の硬直さをいかに回避し、いわば「自由な韻文」を目指すか、というころに趣きがある(と思う)
のだけれど、そういうのは難しい。前半の半過去つづきも、「していた」の連続は単調になってしまって
むずかしいところ。
4章だての起承転結ぶりにも、「韻文の短編小説」と当時から呼ばれるだけのものが見られるけれども、
注目ポイントは時制にあります。ずっと半過去(の間に単純過去)で綴られてゆく物語が、
最後にいたって現在形、そして未来形へと移ってゆく。
青年と洗濯女の恋愛という(散文的)物語は、最後には無時間の中に投擲され、
死に直結する宿命的な愛という、単純かつ純粋な一種の「神話」を形成するに至る。
そこでは個人はもとより名を持たず、思考(言葉)を失い、ただ本能の支配する「自然」の状態へと
還元されてゆく。
レアリスムはかくして、モーパッサン流の「象徴主義」的世界へと変貌を遂げるのだ


というのがまあ、私のひそかな主張なのでありますが。
宿題の長篇詩はあと二つ。勢いにのって訳せるか、どうか。