えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

浦雅春『チェーホフ』

なんの脈略もなく、発掘してきた本の話。
浦雅春チェーホフ岩波新書、2004年。
読んでいると実にモーパッサンとの類似に目が留る。
チェーホフモーパッサンを比較して論じられたのは実は明治から大正にかけての頃のことなのだけれど。
モーパッサン1850年生まれ、1893年没。
チェーホフは1860年生まれ、1904年没。十年違いで、ほぼ同じ年を生きた。
ともにジャーナリズムが舞台だったという点も共通する。
モーパッサンは主に新聞、チェーホフは雑誌の方が多かったようで、その点にフランスとロシアの
微妙な差異はあるけれど。
両作家とも実に多作だった。モーパッサンは中短編300、長編6にクロニック250。戯曲は初期を含めて5編。
チェーホフは小説580編、戯曲17本。加えるに私信4400通。
もっともチェーホフの方がデビューはずっと早かったから、活動期間も長かったのだけれど、
最盛期の1883年には小説108本というから、書き飛ばしぶりは半端ではない。
ともに短編に才能を示したということが、やはり比較の要であり、
もちろんリアリズムということが問題になるのだけれど、
「問題の解決」ではなく「問題の正しい提示」が作家の使命という「客観主義文学論」(100ページ)など
モーパッサンも首肯したこと間違いない。チェーホフの描写は年を追うごとに切り詰められて
いったそうだけれど、簡潔・明晰であることを重視するモーパッサン短編の美学も、
その行き着く先は「語らないこと」に語らせる沈黙の美学だったと言っていい。
そこには確かに短編小説の極意ともいうべきものがある。
論者が「アパシー」の語で説くところの「理念の喪失」という問題。
リアリズムはなぜニヒリスム、ペシミスムへ行き着くのか、というのは
ほとんどポール・ブールジェ的な命題の立て方だけれども、そこには必然的な結び付きがあることを
認めないわけにはいかない。
もっとも、チェーホフにはサハリンの体験があった。そのような重要な転機をモーパッサン
持ち得なかったかもしれない。かわりにモーパッサンにあっては、二十歳の時の戦争の経験が、
何より彼の世界観を決定づける上で重要だった。「極限」の体験が重要な意味をもったという
点に共通点を見ることができるのではないだろうか。
チェーホフについては詳しくは分からないけれど、モーパッサンにとってはトゥルゲーネフの
存在が、彼の文学を方向づけるのに一役買っているということを挙げておこう。両者の
先駆者にこのロシアの作家がいたことの意味は少なくないように思う。
時代と社会の近似性が、別々の地に共通の性質を多く備えた作家を輩出した
というのは、当為というなら当為なのだろう。彼らはともに時代の申し子だったと
いうことができるのかもしれない。それにしてもたいそう興味深く思われるのである。