えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

遺贈

Le Legs, 1884
9月23日、ジル・ブラース。「ル・ヴォルール」10月23日。
『ベラミ』第2部6章の挿話を抜き出して短編に仕上げたもの。
セルボワ夫妻のもとへ足繁く通っていた友人ヴォドレックが亡くなり、
夫は彼が二人に財産を遺贈しなかったことをいぶかしむと、妻は顔を赤らめる。
彼女は公証人のところへ聞きにいけばいいと勧め、二人は出かける。
公証人はヴォドレックの遺書があることを告げ、それを読み上げる。
全財産100万フランを、クレール=オルタンス・セルボワ夫人に遺贈するという内容だった。
受け取るには夫の同意が必要だが、夫は返事を一日伸ばして家へ帰る。
そして妻に、彼の愛人だったのかと詰めかける。彼女は顔を青くしながらも否定する。

 セルボワは彼女の正面で歩みを止め、わずかの時間二人はごく近くで互いの目を見つめながら、見て、知り、理解し、発見し、心の奥底までもを推し量ろうとした。共に暮らしながらいつも相手のことが分からず、それでいて疑い、何かを嗅ぎつけ、いつも窺っている二人が交わす、熱を帯びながら無言のあの問いかけでもって。
(2巻344ページ)

妻は、ヴォドレックがいつも自分に贈り物を持ってきたように、単に宛名を自分にしただけだと言い張る。
夫は思案し、妻が半分を自分に生前贈与し、公には二人に半々に遺贈されたと思わせればいいと、
ひとしきり理屈を捏ねる。妻は好きにすればいいと突き放す。
そして決心がつくと、夫は一人陽気に公証人のもとへもう一度出かけてゆくのだった・・・。


冒頭のあからさまな設定にもかかわらずこの話が安直に終わらないのは、焦点が夫婦の心理に当てられ、
それを推測することが読者に求められているからだろう。
これまた「裏切られた夫」の一編である。心理的な葛藤を物理的(金銭的)利害と直面させるのは
「宝石」と同じ、モーパッサンのお得意だ。貞節とか名誉という理念と莫大な財産とではどちらを
取るかという二者択一を前に、欲望に屈してしまうのが悲しい小市民の性というものか。そこでは
意識的にも無意識的にも自己の正当化が図られるわけで、良心との折り合いを一人勝手につける様が
一層滑稽さというかみじめさというかを際立たせる。でもいざ自分の身に照らして考えてみると・・・
これがなかなかどうして笑えない話なのである。のではなかろうか。
『ベラミ』にこんな挿話のあったことを実は忘れていたけれど、こちらではデュロワのけち臭さと小心ぶり
を明らかにするのに大変役立っているし、彼の「不道徳」ぶりの一面を成しているのでもある。
なんとなくマイナスの面が強調されている感じはする。
もう一点はやはり、測りがたい、測りえない人間の心という問題であり、作者は先の引用の少し前でも
それを強調している。

 彼女は彼の目の底を、深く奇妙な風に眺めた。まるでそこに何かを探すかのように、まるで「存在」の未知の何かを発見しようとするかのように。その未知の何かを人は決して知り尽くすことはできず、見抜くこともほとんどできない。あの素早い一瞬、魂の神秘に向けてわずかに開かれた扉のような、無防備で放心し、予期していなかったあの一瞬においても。
(344ページ)

目は心の扉というけれど、なかなかどうして簡単に分かるものではないことは誰もが知ることではあるけれど、
モーパッサンはそれを強調し、そうして強調されると改めてそうだよなあと思う。それが
たとえずっと一緒に暮らしている夫婦であってもだ、と、作者は言うのである。
そういう作者にとって「謎」は、「怪奇」は、そして「幻想」はすぐ傍に、いたるところに、
人の心の中にこそ存在したのである。
というのはまあ、モーパッサン特有の「幻想小説」を語る常套の文句であるだろうか。
もちろんこの作品は全然幻想小説ではないのだけれど、主観を抜け出ることのできない主体という
問題は、テーマというよりもっと深い作者のヴィジョンそのものに関わるものだ。「存在」の一語が
大文字で書かれているところにも、そういうものの見方が窺われる。
というわけでいつもながら、モーパッサンの滑稽話はなかなかどうして、笑って済ましてすぐ忘れておしまい
とはいかない何かがあるように思えるのだ。