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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

学会誌を読もう(3)

文学研究

そういうわけでまた続き。


Kensuke Kumagai, "Résurrection de la ville - A propos de la fête théâtrale dans La Dernière mode" de Mallarmé, p. 95-109.
パリに出たマラルメは1874年にモード雑誌「最新流行」を発行、「クロニック・ド・パリ」の欄には
劇評も載せられた。そこでマラルメは演劇の慣習的嘘(虚構)を批判し、真実性を要求している。
彼の劇評はしかし美学的な問題に留まらず、「劇場」の社会における存在の意味を問うものでもあった。
第二帝政時の変革と何より普仏戦争後の荒廃のパリにおいて、マラルメは各秋の劇場の再開と
都市の再生とを重ねあわせる。その象徴は当時新たに建設されつつあったオペラ・ガルニエに見出される。
さらに78年の万博の開催に、マラルメは現代における「新しい演劇」の可能性を見出す。
こうした70年代の演劇をめぐる思索は、87年の劇評において展開され、未来の「祝祭」の構想へと
繋がってゆく。というのが粗雑な要約で申し訳ないながら私の理解するおよその論旨。
70年代から後のマラルメの演劇についての思索が一貫性を保ちながら深化してゆく様を、
「空虚」と「シミュラークル」のキー・ワードを軸に把握するもので、若干思弁的すぎる
ように思える箇所もマラルメ論には避けて通れないものかもしれない。ゾラを引き合いに出して
くる仕方は私には多少不満で、マラルメとの結びつけ方はやや強引に見えなくもない。
しかし全体としては成程そういうことだったのか、と納得の論理で、マラルメユートピアの夢は
いかにして紡がれていったのかが理解されるのである。


Yuki Ichijo, "Images du Poulpe dans Les Chants de Maldoror", p. 110-124.
お題は蛸である。それがまず凄い。
『マルドロールの歌』が先行するテクストのレエクリチュールから成っていることには既に色々研究が
あるわけだけれど、論者は「蛸」に焦点を絞って考察を展開する。まずユゴー『海の労働者たち』および
ミシュレ『海』におけるタコの描写を挙げ、グロテスクな怪物というタコのイメージが、ロートレアモン
取り入れられていることを検証。その上で、「第一の歌」と「第二の歌」に登場するタコの相違を捉え、
一たび外から取りいれられたイメージが、作者自身のエクリチュールの進展の中においても「書き換え」
が行われ、重層的なイメージを構築してゆく様を検証した論。
船をも襲う巨大吸血タコという『海』で語られるタコ像にまずは爆笑(図像も掲載されていて本当に
船を襲っている)。極小的な題材から、しかし後半は作者のエクリチュールの在り方そのものを
問題にすることで射程を広げており、広義での「間テクスト性」という観点から『マルドロール』再考の
可能性を窺わせるものとなっている。改めて読むと『マルドロール』の空飛ぶタコは実に変だ。
ぜひ他の変な生き物についてもどんどん研究を進めてもらいたいと思う。


倉方健作、「「二重の眼」のもとに −ランボーを受容するヴェルレーヌー」, p. 127-138.
1871年のランボーヴェルレーヌの密接な交流は歴然としているにも関わらず、ヴェルレーヌランボー
影響をどのように受けたかは資料の乏しさもあって明確にされていないという。論者は1874年『歌詞のない恋歌』
に焦点を絞ることで、ヴェルレーヌの詩法におけるランボーの存在の意義を可能な限り具体的に論証しよう
とする。ヴェルレーヌランボーの何を見、何を知っていたのかを厳密に規定した上で、
「忘れられた小曲」中の詩篇に見られる「二重の眼」の語に注目、「錯乱」する私と隠されたものの発見
作品に聴かれる「他者」の声の内に、ランボーの影を読みとってゆく。
避けて通れないけれども取り扱うのは難しい問題というのはあるもので、その難題に取り組む論者の
真摯な姿勢を評価したい。ここではまだ微細すぎる観が多少拭えない議論をどのように広げていけるか。
極小から極大への飛躍が、ここでも問題となるのかもしれない、と思う。


というわけで140ページ弱まで来た。いやもう本当に大変。濃い上に面白くってさ。