えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

バラの葉陰とは何か

1870年代モーパッサン演劇で実は忘れていけないのは、
A la feuille de rose, Maison turque なる作品である。
『バラの葉陰、トルコ館』は、ボート仲間達が寄り集まって冬の気晴らしに作ったという一幕散文の芝居。
1945年にピエール・ボレルが限定200部の地下出版で初公開。60年にも出るがこれも正式な流通ラインには
乗らなかったものらしく、
Guy de Maupassant, A la feuille de Rose Maison Turque, suivi de la correspondance de l'auteur avec Gisèle d'Estoc et Marie Bashkirtseff et de quelques poèmes libres, Encre, 1984.
はオラが実質最初だと主張している。次いで、
Théâtre érotique fançais du XIXe siècle, présenté par Jean-Jacques et Mathias Pauvert, Sortilèges, 1994.
に収録され、最近は、
Guy de Maupassant, A la feuille de rose, Maison turque et autres écrits érotiques, Flammarion, coll. "L'Enfer", 2000.
でごく普通に入手することができるようになった。
トルコ館とは要するに売春宿で、そこへ誘導されてやってきたコンヴィルの村長ボーフランケ夫人を色男レオンが
たらしこんでいる間に、夫の方はトルコ風の衣装を着た三人の娼婦に弄ばれ、夫婦は逃げ出して村に帰ってゆく、
その間に次々と変な人物(屎尿汲み取り人、せむし、工兵、マルセイユ男、イギリス人)が訪れどたばたを演じ、
宿の主人はミシェ、召使がクレット・ド・コック、というお芝居である。
ま、エロチックと言えばエロチックではあるが、この卑猥なことおびただしい芝居を演じたのは全員男性で、
友人だけのごく内輪な上演会をなんと2回もやっている。1度目は1875年、2度目は77年、2度目にはフロベール
ゴンクール、ゾラや彼の下に集う文学青年達も顔を出した。
そういう話がある。
共作ではあるけれど、中心になったのはジョゼフ・プリュニエことモーパッサンで、
彼はもてもて娼婦のラファエル役。同じくファトマは「一つ目」ないし「アジ」ことアルベール・ド・ジョワンヴィル
レオン・フォンテーヌ、別名「プチ・ブルー」はボーフランケ夫人、「トック帽」ことロベール・パンション
はその他の端役を演じた。みんな親しいボート仲間だった。そしてボーフランケ氏はなんと
オクターヴ・ミルボーが演じている。70年代ミルボーはモーパッサンとも仲良しだった。
んでまあとにかく何でもやり放題の放縦な芝居であって、120パーセントの確率で、当時まともに上演したら
全員禁固刑プラス罰金ものである。これに比べれば『リュヌ伯爵夫人』なんて可愛らしいものだというぐらい
とにかく凄い。というか下品なお芝居なのだ。
こんなおいしい?作品を放っておくなんて勿体ない。どこかの出版社が翻訳出せばいいのに(ガミアニも出たし)
というか訳してどっか売り込もうかしら。と思わないでもないんだけれども、
しっかしこれが難しいのである。
まず名前からして、Miché は役としてはmaquereau「淫売宿の主人」だけど、
辞書を引けばmicheton「売春宿の客」の意味とある。複雑だ。
そいで Crête de coq は「トサカ頭」なんかではない。
では何かと申せば、これは「尖形コンジローム」を意味するのだね。ああもう。
Conville という村の名前は、実は『ボヴァリー夫人』のYonville にちなんでいながら、フランス語を
ご存じの皆さまはご承知のようにcon-ville の合成語である。そんなもんどう訳せというのだろう。
題名の「トルコ館」は『感情教育』への参照であるけれど、feuille de rose というのは、実はこれも性的な含意のある
俗語だ。肝心な中身に関しても、こんなのが続出。子供かい。

Le Vidangeur - Je viens pour vider les caca, les cabinets... Je suis le vi... le vi... le vi...
Crête de Coq - Quel vit ?
Le Vidangeur - Le Vidangeur.
(Ed. Flammarion, p. 17-18)

マルセイユ男の訛りは無茶苦茶でイギリス男も相当ひどく、話す内容がまたとんでもない。
作者に差別的な意図はないどころがありまくりなので、今どきの出版社は出してくんないかもしんないなあ。
ま、これぐらいにしておこう。とにかく訳すのがとっても難しい作品なのだ。
それはともかく、こういうお馬鹿な芝居についてしばらく
ごく真面目に考えちゃいました、というお話。それはある意味ではこのポルノ芝居こそは
レアリスムの極北にあるかもしれないということであり、1870年代のモーパッサンの文学的姿勢の
決定的転換点においてこの私的上演が一役買っているのではないか、ということである。
リアリズムは不可避的に道徳を侵犯する。そのことによって「道徳」の意味を根本から問い直す。
逆に言えば、フロベールボードレール以来、レアリスムをポルノ呼ばわりするのは批判の常道でもあった。
だったらそのレアリスムへ向けて堂々と一歩進み出んとした文学青年が、こういう芝居を作るということは
たとえそれが内輪のお楽しみのためであったにせよ、少なくとも彼の文学活動の一貫に組み込まれたもの
であったということを否定するべき理由は何もないはずだ。さらに言えば私的な上演に限定されていたから
こそ、そこでは一切の自己検閲的操作が介在しない表現が成立しえた。先にも述べたように『リュヌ伯爵夫人』
のスキャンダラス性は今となっては完全に風化したものだけれど、この作品は全然そんなことはない、という
ことの意味は何だろう。
とまあ、そういう感じで。
ところでフラマリオン版の「その他のエロチックな作品」という中にモーパッサンの『詩集』一冊丸ごと
入っているのはどういうこった。ページ数稼ぎに全部収録しといて勝手な題をつけてもらっては困る。
もちろん『詩集』は、全部が全部、というかそもそもどこもかしこも、そいう代物ではないんである。多分。


ところで、フランス語のテクストは、ケベック図書
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