えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

未刊の歴史の一ページ

Une page d'histoire inédite, 1880
「ゴーロワ」紙、10月27日、コナール版『太陽の下に』初収録。
まだ若い頃のナポレオンがコルシカに滞在時に遭遇した一事件に関する物語。

 以下の物語は隅々まで信憑のあるものである。私はほとんど聞き書きに記したのであり、何も変えず、何も省略せずに、より「文学的」、ないしは劇的にしようとは思わず、ただ事実だけを、裸の、単純な事実を、すべての名前、人物の行動の一切と彼らが口にした言葉とだけを著したのである。
 もっと巧みに組み上げた語りの方が恐らくはよりお気に召しただろう。だがこれは歴史に属するものであり、歴史には手を加えるものではないのだ。(1巻186ページ)

内容の詳細は記さない。当時のコルシカ総領事は革命政府に反抗し、イギリスと組んで独立をはかっていた。
そこで邪魔なナポレオンを始末しようとしたが、彼は辛くも逃げ出すことに成功した、という歴史の一挿話
が語られている。それを実際にモーパッサンはコルシカで伝え聞いたのだろう。
フィクションではないけれど、フォレスチエ先生の言うとおり、
「語り」の形式からすればこれはまさしくコント、いやむしろヌーヴェルと呼ぶべきものだろう。
(「本当にあったことを語る」のを旨とした『エプタメロン』以来の伝統があるのだし。)
それはそうと、モーパッサンが「歴史」について語ることはほとんど無かったと思うし、
彼の作品に「歴史」を見出すことはむつかしい。
例えば『女の一生』は、1819年から物語が始まっていて、設定は実は『ボヴァリー夫人』と同時代に置かれて
いるのだけれど、しかしノルマンディーの田舎には革命の声も響かず、後半はどんどんと空白の時が過ぎてゆく。
大文字の歴史はあからさまなまでに捨象されているようだ。もっとも、にもかかわらず、
ジャンヌの一家の「歴史」はそれ自体、没落する貴族階級の象徴としても読めるのであり、
後半になって再登場するロザリーは繁栄するブルジョア(正しくは彼女はブルジョアではないけれど)として
鮮やかな対比を成すのではある。少なくともそう読むことは不可能ではない。
そう思って考えると、ナポレオンの話も、歴史上何かが起こったのではなく、むしろ起こらなかった一幕に
ついての話であるということは、なにがしか意味深長な気がしなくもない。どうだろう。
そういえばコルシカ、ナポレオンは『女の一生』にも登場することは忘れてはいけない。ソヴァージュであり
自然の中にあるコルシカは、モーパッサンの世界にあって幸福のトポスだった。地上の楽園として『女の一生
では描かれており、それは地獄のようなパリと明確に対比される。
であれば雨降る沈痛なノルマンディーこそは、ジャンヌにとっての現世だということになる。
歴史の捨象されたこの世界ではただ季節が繰り返し、春に目覚めがあり、死の冬が訪れる。ジャンヌの生活
はその自然の時間の中においてのみ流れてゆくことになるわけだ。
おっと話が逸れまくっている。
「文学的」にではなく、劇的にでもなく、ただ「事実」を、という主張は、恐らくモーパッサンの短編の全体に
通底する語りの理念だと言っていいだろう、と思う。「文学」とは「虚飾」であり「虚偽」である、と彼は言う。
だから彼の作品は「非文学的」であるというのはしかし誤解でしかない。と、研究者は主張するし
私もそう考える。文学作品の文学性を担保するものとは一体何なのか。モーパッサンはそれを真実だと言う。
だがフィクションにおける真実性は検証可能なものではない。誰もそれが真実であるかないかを決定すること
はできない。だから、文学作品が与えうるものは、それが「真実であるだろう」という感触以外にはない。
そういうわけで「本当らしさ」はモーパッサン文学の肝心要のキーワードとなる。
問題はそれではその「本当らしさ」を担保するものは一体何なのか、という話になるのだけれど、
やはり話がずれている。
ナポレオンの話は、敵の大将がいざ捕まえん、という時に、ナポレオンに好意的だった奥様が、
夫にしがみついて離さず、それで追跡が遅れたが故にナポレオンは助かったのだ、というもので、
夫にしがみついた彼女の行為一つが、その後の歴史に決定的な変化をもたらしたのだ、と
冗談混じりに語っている。そこにも作者は宿命的な「偶然」の存在を認めている、と言えるだろうか。