えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

花袋「西花余香」

明治期の日本でのモーパッサン受容に関しては、絶対に外すことができないのが田山花袋である。
ということは常識でありながら、しかしまあなんつうか、食指が動かないのであるなかなか。
しかしぼちぼちと検討してゆきたい。花袋のモーパッサン受容のありかたは、意外に一筋縄では
いかないようなところがある、という感じがしている。
第一段はこれ。

モーパツサンが「ベルアミイ」こそいみじき小説なれ。慾情を逞うすること尋常茶飯に均しき主人公を拉し来りて、姦通また姦通、不義又不義、しかもその間に起り来れる機微の情を利用して、巧みに淫乱を極めたる仏蘭西の上流社会に地歩を占むるの行路、殆ど人をして人間猶この事ありやと疑はしむるばかりなるを覚ゆ。就中主人公の落魄を巴里の街頭より救ひたる友人フオレスチールの妻をうばひ、その垂死の病床に、公然其妻と戯るるの一段の如きに至りてはいかに寛容なる読者と雖も眉を蹙せざる事能はざるべし。然るに、モーパツサンはこれを描くにかのゾラが執れる如き尖りたる筆法を用ゐず、純乎たる写実の筆を以て、人間にこの事ある怪しむに足らずといへるが如き態度を以つて平然としてこれを描けり。欧州大陸に於ける自然主義が人性の極端を暴露して少しも仮借するところなきの可否は審美学上の一大疑問に属するや論なしと雖も、われは此所謂不健全なる作品の中にも猶驚くべき人生の真趣の発展せられたるを認て慄然として胆を寒うせざるを得ず。
「西花余香」『太平洋』明治34(1901)年6月3日、『小説作法』(1909)「雑文集」所収。『花袋全集』第26巻、臨川書店、1995年、409-410頁。

いや、すごい。いみじき文章とはあんたのことやがな、と言いたくなります。
がしかしもっと凄いのはこの翌月である。これは孫引きで引かせてもらいます。

モウパッサンが「ベル・アミ」の淫奔猥褻の書なる事は既に説きしが、その短篇集を繙くに及びて、いよいよその描写の極端なるに驚かざるを能はざりき。篇中父の子を姦するにあり、妹の姉の恋を奪ふあり、女優と戯るゝあり、父の妾と馴るあり、処女を姦するあり、相歓の場を窺うあり、姉妹の以太利少女と契る観光の旅客あり、手淫あり、強姦あり、其他僧侶の婢と相通ぜる、学生の高等淫売を買へる、妻女の姦夫と相奔れる、冊を通して十一巻、短篇の数百五十余、悉く淫猥なる市井の情事にあらざるなし・・・世のモーパツサンを伝ふるもの、或はその文の軽快にして華麗なるを以てし、或はその着想の詩的にして幽麗なるを以てし、われも亦一度はその筆致に誘はれて、詩人的情致を懐けるなつかしき作者よと思ひたる事ありたりしが、今に至りて始めてその真偽の如何を知り、転た慨嘆の情に堪へず。されどこの慨嘆の情は作物に対する失望にあらずして、寧ろ自己の知らざりしある新しき映像に触れたるがためなり。あゝこれ何故ぞ、渠の取れる題材のしかく淫猥、卑陋なるに拘わらず、読み去り読来つて、一種限りなき情想と一種驚くべき勢力とに撲るゝは何が故ぞ。これかれが自然に忠実に、自然を描くに狭き作者の主観の情を以てせざりしに依るにはあらざるか。自然のまゝなり、赤裸々なり、大胆なり、これが為めに渠の作物はある一時代の道学先生に責めらるゝ事はあるべし。しかも渠はこれが為めに遂に克く不朽の名を保つ事を得るにあらずや。渠、その名作「ピエル、エ、ジェン」を公にするや、そのはじめに題して、批評家の望む所多きを罵り、作者は只おのれのよしと見たるところを描けば足れりといへり。自然なれ、自然なれ、題材の卑陋淫猥なるは芸術の上に於て豈謂うに足らんや。
「西花余香」『太平洋』明治34(1901)年7月15日。秋山勇造『埋もれた翻訳―近代文学の開拓者たち―』新読書社、1998年、281-282頁に引用。

驚きぶりは大変よく伝わってくるのである。
しかしまあ、
「冊を通して十一巻、短篇の数百五十余、悉く淫猥なる市井の情事にあらざるなし」
って、がーん、そうだったのか。なんだかこちらが恥ずかしくなってしまう。
ある意味、これ以上の宣伝文句もないという気がするけれど、そのお陰あってかどうか、
英訳「食後叢書」はせっせと読まれ、短編の翻訳がどんどん雑誌に載るようになるのは
この頃からとなるのでありました。