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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

蒲団(2)

日本文学

ところで『蒲団』において明確なのは、時雄君のは恋愛というより、田中君の登場によって掻き立てられる
嫉妬こそが中心を占めているということであり、「他者の欲望を欲望する」というルネ・ジラール
の模範的事例となっていることだ、と思う。
その意味でこれは正しく近代小説であるのだということは、言えるのではなかろうか。
さてところで、田山花袋モーパッサンのどの英訳を読んだのか、ということに関しては
山川篤『花袋・フローベールモーパッサン駿河台出版社、1993年
に実は相当詳しい調査がなされていて頭が下がるが、この本は調査「結果」ではなく「経過」が述べられて
いるので使い勝手はあんまりよろしくないのではある。
これによれば、花袋は「食後叢書」(たぶん)11巻を明治34年5月に購入。36年以降にダンスタン版も購入している。
「父」は「食後叢書」3巻(ダンスタンでは1巻)The fatherであろう。
『死の如く強し』は Fort comme la mort or the Ruling passion
(死の如く強し、あるいは支配する情熱、とでもなるのかな)はダンスタンの11巻に入っている。
ただし花袋が40年より前にダンスタン版を買っていたという証拠は存在しない。
というか最初に日本に入って来たのは42年ではないか、と思われるので、もしかすると、
Strong as Death, translated by Teofilo E. Comba, Truslove Hanson & Comba, London & New York, 1900.
という版を入手していた可能性もなくはない、という話。
いずれにしても『死よりも強し』という花袋訳がどこから出てきたのかは今一つ不明だ。
それはまあともかく、「父」の箇所も見ておこう。

―あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性欲の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境に置いた美しい芳子は、売女か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶え悶えて殆ど眠られなかった。いっそこうしてくれようかと思った。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々なことが頭脳に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬なき恋を語ったらどうであろう。危坐して自分を諌めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それともまたせつない自分の情を汲んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日長けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それをまた今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛にそれと争った。で、煩悶また煩悶、懊悩また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。
『蒲団・一兵卒』岩波文庫、2002年(改版1刷)、90-91ページ。

いや、凄い。ある意味作中一番がんばって「告白」した箇所かと思われるけれど、結果的にフェミニズム的には
マイナス100点の模範解答みたいになっている。それはまあそれとして、
「明らかにこれはテキストとして使って読んでいる場面ではない」
と山川篤が言うように(33ページ)、ここでモーパッサンが引き合いに出されるのは疑問でなくもない。が、
裏を返せば、花袋の中ではこの場面と「モーパッサン」とがぴったり結合していたとうことかも
しれず、そのことは「西花余香」の書きぶりと繋がっているようにも見える。
ましかし、がんばって露悪的に書いた箇所だけを取り上げて徒に云々するのもなんなので、発言は控えめに。