えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

広津和郎訳『女の一生』

モーパッサンの日本受容において忘れてはならないことの一つが
英訳に紛れ込んだ偽作であるなら、もう一つは検閲ということになろう。
清水考純「フローベールモーパッサン・ゾラ―大正期の翻訳 そこで禁圧されたもの」『國文学 解釈と教材の研究』第47巻第9号、2002年7月臨時増刊号、p. 71-75.
は短いながらこの件について述べられたものである。
んでそこに出てくる『世界文学全集 第二十巻 ボワ゛リイ夫人 女の一生』、新潮社、昭和2年
を入手してみる。なんのことはなくお値段千円なり。
『ボヴァリイ夫人』(ワに点々なんて初めて見た)は中村星湖、『女の一生』と「脂肪の塊」が
広津和郎訳となっている。
この翻訳に関しては度々引用の『年月のあしおと』に広津自身が詳しく述べているのだけれど、
大正2年に植竹書店から出版。英訳を基にしたもので、1万部は売れるも後に発禁。
その後、削除を施して出された五十銭の縮刷本が、やはり一万売れた頃に、植竹書店が倒産。
新潮社に移って、これは一定の原稿料で売切りにしたので印税は入らないが、五・六十版は
重ねたという。それからこの円本全集で再び印税で、何でも三十八万部刷ったというから凄い。
前書きによれば円本の時点で仏語原書によって訂正、後半はほとんど改訳になったそうだ。
「翻訳をするには最も金のとれる小説」ということでこの作品を選んだという正直な告白も
なんだけれど、読みはずばり当たって、半世紀にわたって印税が入りつづけたというのだから、
羨ましい話だ。
まそういうわけで大層流行った「円本」なので今でも廉価で手に入る。
んでまあ、どこが検閲されているかなんて予想の範囲内ではあるけれど、確認してみると、
『ボヴァリイ夫人』の方はヽヽヽヽヽヽ、ヽヽヽヽヽヽなんてなっているところ、
女の一生』は大胆にも
・・・・略・・・・
となっていて、いっそ潔い感じである。
女の一生』には初夜の場面が描かれているというので、大正頃の中学生は
英語ができるようになるとこぞって辞書片手に英訳本を読んだというのは広津も語る有名な
エピソードだけれども(月報の中で三上於菟吉も回想している)、めんどくさい人が
広津訳に飛びついて失望を覚えたことも少なからずあったのであろう。いやはや。
しかしまあ誰もが思うように、
・・・・略・・・・
には何が書いてあるのだあ、と想像力は一層掻き立てられること疑いなく、
そもそもジャンヌの例は不倫でもなんでもないんだからわざわざ検閲して
どないになんねん。という話だけれども、前記清水論は、『ボヴァリイ夫人』『女の一生
それに『ナナ』が集中的に発禁をくらっている事実を検証し、当局が恐れたのは
「性のアナーキズム」言い換えれば女性による性の発見ないし解放だったのだろう
と述べていて、これはなかなか興味深い見解だ。
検閲ないし発禁ということに関してはいろいろ考えるべきこともあろうけれど、
ある意味、官民一体となってモーパッサンを猥本扱いしていたということではないか。
エロス的欲望の駆動によって戦前だけでも『女の一生』が優に百万部は売れた
だろうということは、必ずしも馬鹿にすべきこととは思わないけれども、
それだけだったとは、あんまり考えたくないね。