えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

初暖房

思索のつづき。
77年演劇『リュヌ伯爵夫人の裏切り』は、その後『レチュヌ伯爵夫人』で自己検閲的
修正が施されるとはいえ、不当な結婚制度の被害者としての女性の、男性弾劾と挑戦の
主張に他ならない。
第二帝政以来のブルジョア演劇において不倫は最も頻出する主題であったことはおそらく
確かであり、そこにモーパッサンの独創があるわけではないかもしれないが、彼はその主題
を韻文歴史劇という過去のドラマに設定することによって、より率直に、暴力的な形で
女の主張を声高に叫ばせた。
ところが一転、78年の詩篇「田舎のヴィーナス」はタイトルからも明らかなように、
美と愛の女神を歌いあげる。あらゆる男性を分け隔てなく受け入れる女神とは、
男性の欲望の対象としての女性の象徴に他ならない(と思う)。
詩篇の後半では年老いた醜い魔法使いが、彼女を虜にし、性愛の戦いにおいて
彼女を殺害する。そこに永遠の不和として男女の関係を見る作者の思想が
読み取れるに違いない。欲望と嫉妬に駆られ、男は女を征服する。この作品は
「詩人モーパッサン」の思想を神話・象徴という形によって表出しようとしたものである。
さて二転して、79年末から80年に書かれたのが「脂肪の塊」だ。
彼女は第一に娼婦である。すなわち、男性の欲望の対象としてこそ彼女は規定されている。
だがその彼女はプロシア将校を拒絶することによって、愛国心と個人の尊厳を固辞する。
それが性愛を巡る駆け引きであることにおいて、男性権力に対峙する女性の主張でもある
と言うことはできると思う。
つまりここにおいて、主張する女の声、欲望の対象として見る男の視線の双方が
いわば相対化されることになる。それが劇でもなく詩でもなく、小説において初めて
成されたのは、それが「語り」を持っているからに他ならない。男女双方の視線を
俯瞰する作者の視点と、その視線によって見定められる「社会」の存在。脂肪の塊を
「降服」させるのは、もはや単に敵対する男性ではなく、男女を含めた(ブルジョアという)
社会全体である。その時、彼女の声が抑圧されるのであるとすれば、それは「娼婦」という
社会的存在(周縁でありながらなお内包されるもの)を黙認すると同時に排除する
社会の構造そのものによってであるだろう。実際、厳然たる階層意識と、売春は賤業であるという
見方は、エリザベート・ルーセ自身の意識に内面化されている。だからこそ彼女の抵抗は
挫折せざるをえないのだ。彼女の敗北は社会によって構造的に規定されている。
「脂肪の塊」が諷刺・批判として力を持つのは、単に個人のエゴを暴いたのみに留まらず
社会が本質的に内包する矛盾と欺瞞が、作品の構造によって明かされるところにある。
私はそう考える。
世界を対照化して見る視線、それが見定める社会の存在。それこそが「脂肪の塊」において初めて
モーパッサンの作品に導かれたものに他ならない。そしてこの「発見」こそが、
「小説家モーパッサン」の誕生をもたらしたものだった。
昨日も記したように、「小説」というジャンルにおいてそれは不可欠なものであったかもしれず、
モーパッサンの発見は、全く彼個人にとっての発見だったに、おそらくは過ぎないだろう。
だがしかしその発見が彼を真に小説家たらしめたことこそが、その後80年代を通して、
彼の小説家としての成功を保障するものであったという意味において、
私はこのことは決して小さなことではないと考える今なのである。