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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

六の宮の姫君

読書

故あって
吉田精一芥川龍之介」、『吉田精一著作集』第一巻、桜楓社、1979年
を読んでいたら、むくむくと読み直したい欲望が湧き起り、
手元の本は倉庫で眠っているので(発掘は容易ではなし)、古本屋で購入(なにやってんだ)
北村薫『六の宮の姫君』、創元社推理文庫、1999年
を一気読み。
前半には吉田精一(芥川入門の基礎)が出て来ておおと思うものの、
評伝と小説ではまったくぜんぜんなにもかも違って、この感動に比べたら
批評ってなんと空しいものだろう、と思ってしまうのであることよ。
そう言えば今はまさしく卒論・修論大詰めの時期であるけれど、
私は世の文学部の学生さんには『空飛ぶ馬』から始めて
この『六の宮』までをお読みになることを心からお勧めしたい。
「六の宮の姫君」は何故書かれたのか
それが最初の問いであり、この問いは最後に見事に解かれる。
大事なことは、その答を追い求めていく過程において、
芥川その人と彼の文学のみならず、(ネタばれではあるけれどあえて書く)
菊池寛の人と文学の、それぞれの「ある姿」とまでが鮮やかに浮かび上がってくることだ。
ここで両作家の優劣など問題になっていないことも強調しておきたい。そこにはただ「違い」
だけがあり、菊池寛にも芥川龍之介にもそれぞれの譲れない思いがあるだけなのだ。
そこには両作家それぞれが心に秘める孤独がある。だが二人の生涯がそれぞれ
ある意味で暗鬱といってもいい行路である時にこそ、
二人の交流と友情とがともし火のように輝いて美しい。
そしてそれがこの小説の主題そのものであるのだから言うまでもないことだけれど、
そうした過去を浮かび上がらせることを可能としたものとは
ただ「私」の、あるいは作者その人の、両作家の作品への敬意のこもった深い読書なのである。
文学研究を志す者にとってこの小説は大いなる励ましになると同時に、
ほとんど畏怖に似た思いを抱かせるなにものかだ、と私は思う。
私はまだ作家の評伝を読んで泣いたことはない。けれどこの小説を読んでいると
そこに浮かび上がってくる芥川と菊池の姿に目頭が熱くなる。
これは「小説」だからと開き直るくらいなら、
くそまじめなだけの「研究」なんてごみ箱に放り込んだほうがましなのだ。