えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

試験作成しながら

もちろん『六の宮の姫君』まで読んだ者は
北村薫『朝霧』、創元推理文庫、2004年
を手に取らないはずがない。
単行本は例によって埋もれているので、文庫はまだ買ってないとの言い訳のもとに購入
つづけて再読してしまう。一話めには「六の宮」後話も語られていて嬉しい。


ところで脈略なく気晴らしにコキュ(寝取られ夫)の話をしよう。
ラブレー『第三の書』はパニュルジュが結婚を決断するも、コキュになるのが怖くて
しょうがない。そこでいろんな占い・予言・助言にすがるのだけれど、
あらゆる予言はことごとくパニュルジュがコキュに成ることを告げるのである。
だが彼はめげずに断固拒絶しつづけて行き迷うというお話だ。
『パンタグリュエル』での大活躍の後、一転パニュルジュが道化役になるところが
『第三の書』のミソであるのだけれど、
それにしても彼のコキュ恐怖症ぶりはなんというか実に常軌を逸している。
そこでコキュとはそもそもなんだろうか、と読みながらふと考えてみた。
妻を寝取られることが夫にとって「不名誉」であるという考え方はどこから来るのか。
それはつまるところ、妻は夫の所有物、もっといえば財産であるという考えが前提にあり、
だからして自分の「物」を他の男に奪われることは不名誉と考えられる。
であればこれは家父長制が生み出す代物以外のなにものでもない。
それを倫理的に下支えしつづけてきたのがこれまた言うまでもなくキリスト教の道徳だ。
つまりキリスト教と家父長制とコキュは三位一体であり、同時発生したものということになる
のではなかろうか。
原理的に考えるとコキュの歴史は古代ローマまでは遡れるのじゃないかと思う。古代ギリシャ
コキュの概念はなかったんじゃないかという気がするけれど、ま根拠のない憶測に過ぎない。
モーパッサンにはコキュものの作品が多数あり、あるいは青年時代に愛読したラブレー
影響を見てとれるのかもしれないと、『第三の書』を読みながら思いもするのだけれど、
もちろん、かくなる事情のもとでは、コキュとは中世ファルス以来の長い長い伝統的主題
でありつづけたわけで、それが19世紀末まで存続していたことの証に他ならない。
かくも不滅でありつづけたコキュの主題は、しかし20世紀後半以降の社会の変化によって
遂に過去のものとなった
のかどうか私にはよく分からないのだけれども、はたしてどうなんだろう
てなことを思いながら、明日提出の後期試験作成の合間に息をつく次第。