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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

リアリズムと偶然について思うこと

文学研究

脈略なく引用。

     小説


 本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。おそらくは人生におけるよりも偶然性の少ない小説である。
芥川龍之介侏儒の言葉」『芥川龍之介全集』ちくま文庫、2004年(6刷)、232-233頁)

モーパッサンはボワローの一行、

Le vrai peut quelquefois n'être pas vraisemblable. (Art poétique, III, v. 48)
真実は時として本当らしくないことがある。(『詩法』第三歌、48行)

を度々引き、時には「本当らしさ」のために「本当」(事実としてあったこと)を犠牲にする
ことの必要があることを説いた。
芥川の言っていることはまったく正しい。
それは近代小説の語る物語が因果律を原則にもっている以上「偶然」の介入は忌避される傾向にあった
ということだけれど、実際問題としては(都合のよい)偶然の介入は、文字通り「ご都合主義」として
批判され、作者の技量の拙劣を意味しえたという事情もある
(がそれも背後にあるのは因果律的世界観であろう)。
当り前のことではあるけれど、因果律とはそれ自体イデオロギーに他ならず、
近代小説は近代合理主義と表裏一体の産物である。
そのことが理解されるにはしかし、20世紀を待たなければならなかったし、
20世紀の前衛的な試みのあれこれの後も、今でも小説の世界に因果律は根強く
生き残っている。おそらく、原因から結果までが一本の線で繋がる「物語」を
程度の差こそあれ、我々が常に必要としているのだからしょうがない。
それはそうと、芥川の言葉はリアリズム小説批評として正鵠を得ているわけだけれど、
リアリズムに基づく作家であれば、当然そこに問題があることを理解しないわけはない。
もちろんモーパッサンだって事実は時として小説より奇であることを十分知っていた。
だから多分、私は思うのだけれど、
「リアリズム小説における偶然」という主題は、考究するに値する。
偶然とは決定論が支配するリアリズム小説にうちこまれる楔のようなものだ。
偶然という異物は因果律に則る世界に不快をもたらさずにいない。
だから(多分)モーパッサンのような作家にとって、偶然は不可避的に「宿命」の
色を帯びる。因果律は人間の知の領域を越えたところに存在するのであり、
法則自体の無効の宣告は、そのことによって回避される。
それは世界認識の一つのあり方であり、哲学的な問題に触れている。
逆説的なことだけれど、神の摂理を否定した近代合理主義が
その帰結として宿命論に至るということは、十分ありえるのだ。
では同様に近代的理知を体現するかのような芥川の文学世界にあって、
「偶然」はどのように出現しえたのか。あるいはしなかったのか。
というようなことを、誰か考えてはくれないものかと思うのでありました。